新社会兵庫ナウ

若者のひろば(2021年8月24日号)

2021/08/24
労働組合という組織
 
 連合系の労働組合の役員をやっている。組合役員というのは大衆と関わっているようで、実は特定のタイプの人間としか関わっていない。労働者のほとんどは20代から60代前半である。そして毎日遅れもせず出勤できるだけの社会性を備えている。これだけでも一定の選別がかかっている。日本の組合組織率は17%程度で1000万人ほどが組織労働者ということになる。組織数以上に労組の存在感は薄い。労使協調的な組合でも労働条件にはプラスにはなっている。もっともそれは労働者の欲求や闘争の可能性をスポイルした上でのことである。役員をやっている私自身、闘っているのか事務作業をこなしているだけなのか、労働組合のフリをしているのかよく分からなくなっている。
 大抵の人は鈍感になって慣れてしまっているが、労働現場には不条理なことが多い。私が最初のころ感じたのは、職場のヒエラルキー、様々な規律、業務の効率のために身体そのものが指揮命令のもとに制御されることに関しての違和感であった。私はどうも学校教育での規律訓練が不足していたようで、こうしたことに対しての不快感が強かった。今もくだらない指揮命令には反感を感じるし、どうにかしてぶち壊してやろうというようなことを考える。労働そのものは身体が規律訓練になじんだのか、さほど負担ではないし、組合活動も含めれば軽度のワーカホリックではないかというくらい働いている。
 労働運動には2つの側面がある。身体を制御されることへの不満から労働強化に反対する闘争へと至る面、規律を身につけることにより自らを組織化する力を増していく面。労働者が規律を身につけることは資本にとっても得になることであるが、労働組合として自律した力をもつことは資本にとっての脅威となる。
 現実の労働組合、とりわけ連合系組合は、企業内組合・労使協調・生産性向上への全面協力・階級性の欠如という点で大いに問題があるが、そういった部分とは別にして、私が感じる最大の不満は、手の込んだ階層制、もったいぶった儀式、官僚的運営といったものに対してである。まるで対峙すべき企業文化そのものを模したかのようなあり方に嫌悪感をもってしまう。労働者の団結ってそういうものか?
 ずいぶん前に職場でちょっとしたトラブルがあった。管理者と労働者の間での解釈の行き違いから「命令していないから超勤ではない」ということになったのだ。5人くらいで直接抗議して超勤代を払わせた。職場の労使交渉の窓口を使って交渉しても同じ結果にはなったと思うが、印象的な出来事だった。闘争と組織というのは違ったベクトルがあって、官僚的組織は闘争する団結を捕獲し吸収してしまう傾向があると思う。(G・I)