新社会兵庫ナウ

私の主張(2023年11月8日号)
新策定の「芦屋市教育大綱」は新自由主義路線そのもの

2023/11/08
【はじめに】
 芦屋市は8月24日、全国最年少の高島新市長の下、市の教育方針を定める「芦屋市教育大綱」(以下「大綱」)を策定。公教育改革を「1丁目1番地」とする市長は、東京大学大学院の公共政策学連携研究部と連携協定を結び、教師のスキルアップなどで助言を求めていく方針などを明らかにした。「専門的な知見を得ながら諸課題に立ち向かいたい」と語る市長と、「この問題が芦屋で解ければ、ノウハウは全国に広がる可能性がある」と東京大学大学院の教授。
 一方、市の教育長は、「教育委員会も方向性は同じ。特に、教員が子ども1人ひとりに目を向ける余裕をつくることはとても重要」(神戸新聞・8月25日)と表明。
【何が問題なのか】
 この20年あまり、全国的に教員の非正規雇用化が凄まじい勢いで進められてきたが、その中で打ち出された今回の「大綱」が抱える問題点について指摘したい。
(1)〈めざす教育像〉
 ①大綱には『教師がプロフェッショナルとしての誇りと実力を持って仕事ができる環境を創り、学びの質の向上を図ります』とあるが、「昨年の文部科学省調査では、残業時間が『過労死ライン』(月80時間)に達した公立学校教諭は小学校で14%、中学校で36%。精神疾患を発症したり離職したりする人も相次ぐ。こうした状況が知れ渡って教員志願者数は減り、2024年度の採用試験では、6割近い地域がこの5年で最低だった」(朝日新聞・9月21日)。教職が敬遠される主な要因となっているのは長時間労働であるが、この厳然とした教員の実態をどのように認識しているのか。どう具体的に『環境』を創っていこうとするのかが抽象的で、根本的な解決に向けた道筋が全く見えてこない。
 ②『児童生徒が画一的に与えられた内容を受動的に学ぶのでなく……』とあるが、戦後教育の平等主義に対置して「選択の自由」を提起。これは、「共に学び、共に育つ」教育に逆行するもので、学校間や地域間の格差や序列化を是正する平等視点を軽視することに繋がる。
(2)〈具体的な施策〉―児童生徒―
 『既存の教科・科目に囚われることなく、STEAMS(科学・技術・工学・アーツ・数学・スポーツ)教育を中心とした教科・科目を横断する幅広い学びの機会を創ります』と言うが、ここには人文・社会科学がない。自分の頭で考え、行動する人間を社会に送り出すのが学びの場としての学校ではないのか。教師が育てているのは「人間」であって、国家やグローバル企業に奉仕する「人材」ではない。専門技術など、役に立つことだけを学ぶのが学校なのだろうか。人権教育や人格形成のための根源的な学びはここにはない。
 今回の「大綱」は目新しいものではなく、陳腐な経済産業省の「芦屋版」とも言えるものではないのか。すなわち、同省は2018年以来の「未来の教室」事業を通じて、コロナ禍にはそれを加速させながら、学びの「自律化・個別最適化」と「STEAM化」の実現をめざしているのである。
 教科学習の「自律化・個別最適化」の主役は、AIドリルである。自学・自習が原則となり、教師の役割は子どもらをそばで励ましたり、進捗状況を管理する補助的な任務となる(「大綱」では、教師の役割は『伴走』)。
 現在、岸田内閣が進める「教育DX」は、学年、教室、一斉授業、教科、一律の教育課程、教師による教授・指導といったこれまでの学校教育の基本的なかたちを掘り崩していく可能性を秘めており、最新テクノロジーを駆使した教育サービスは、基本的には教育産業をはじめとする民間企業によって提供され、その結果、教育改変を進めれば進めるほど教育の「市場化」、「民営化」が進行し、公教育が溶解していくことが危惧される。
 アメリカの話だが、体育館のような部屋にパソコンごとに個別に仕切られたボックスが何列も並び、時給15ドルの非正規のインストラクターが、一度に最大130人の生徒をモニターするという状況が未来の日本に現れるかも知れない。
【おわりに】
 以上のことから言えるのは、もはや専門職としての教師は必要なく、多様な人材(民間から派遣される専門家や非正規雇用者など)が協働して担えば良いことになり、待ち受けているのは教師の大幅な削減ではないだろうか。
この「大綱」は、まぎれもなく新自由主義路線の内容そのものであり、全国化させてはならない。
 大野克美(新社会党芦屋総支部委員長)