新社会兵庫ナウ

私の主張(2023年9月27日号)
際限ない軍事国家への道 戦争準備への暴走を許すな

2023/09/27
 最近、衝撃的な「映画」を2本続けて観た。ひとつは来春以降に劇場公開が予定される三上智恵監督の最新ドキュメンタリー映画「沖縄、再び戦場(いくさば)へ」(仮題)のスピンオフ作品で(だからまだ映画とは言えないのだろうが)、もうひとつは森達也監督の「福田村事件」である。
 島民の反対闘争はありながらも南西諸島で急ピッチで進んでしまったミサイル配備、軍事要塞化の現実に対して、「すでに戦争が始まっているような危機感が一向に全国に共有されていない」(三上監督)との切迫感に満ちた危機感が新作のドキュメンタリー映画の制作に駆りたてた。そのスピンオフ作品では、ごく当たり前のように島の公道を我が物顔で走る自衛隊の戦車の姿や那覇市での戦争を想定した住民の、実際には避難という点では何の意味もない避難訓練などの様子などが映し出される。
 映画「福田村事件」は、関東大震災の混乱のなかで香川県から千葉県福田村に行商に来た一行が、朝鮮人と間違われて自警団に殺される事件を描く。非常事態のなかで国家権力側のデマで煽られた群衆心理がどんなに怖いものかを突きつけられる。事件は震災の中での出来事だが、戦時でも同じような事態が起きてしまう。いや、今だって台湾有事の危機を意図的に煽られ続けられ、国民のなかに軍備増強を容認する風潮が容易に広がっている。
 前置きが長くなって恐縮だが、2つの映画を直接結び付けるものは何もなくても、この映画を観ての思いは日本という国での「戦争準備」という点に向かう。「新たな戦前」という言葉がもはや一般化されるほど、今やそうした世情が広がっている。
 岸田政権は、安倍政権からの安保政策を受け継ぐとともに、ロシアのウクライナへの侵攻、それとリンクさせた台湾有事をめぐってつくられた中国、さらには北朝鮮への危機感の醸成を奇貨として、アメリカの言いなりという惨めな姿を見せつつ、「戦争できる国」から「戦争する国」へとさらなる安保政策の大転換へのアクセルを踏んだ。それが昨年末の敵基地攻撃能力の保有決定であり、防衛費の2倍化、向こう5年間での防衛費総額43兆円の計上である。
 しかし、こうして一度決まってしまった大軍拡路線は決してそこに止まることはない。反対運動などはお構いなしに、軍事費はさらに膨らんでいく。防衛省は2024年度予算の概算要求として、抑止力の強化をふりかざして過去最高の7兆7385億円を計上した。23年度当初予算6兆8219億円から9千億円を上回る大幅増である。しかも、その中身も敵基地攻撃が可能な武器の拡大など重大な問題が見えてくる。
 さらに、こうした動きと一体で、まさに軍事大国への道よろしく、「防衛装備移転三原則」とその運用方針の見直しを急ぎ、やがては武器輸出の全面解禁への道を探っている。
 さらにまた、自衛隊の軍事演習の質的転換も看過できない。昨年11月に実施された日米統合軍事演習(キーンソード23)は、自衛隊と米軍から3万6千人の兵員を投入し、オーストラリア軍、カナダ軍、イギリス軍も参加して多くの島々の陸上、海上で実戦さながらの軍事演習が展開された。
 一方、基地の実相の把握については、今や秘密保護法、土地規制法、ドローン規制法などで撮影は大きな制約を受け、処罰の対象となっていることにも恐怖感が募る。
 総じてこの国の戦争準備の進行と言わねばならない。許すことのできない道筋だ。
 この状況への危機感をどう共有し、歯止めをかけ、はね返していくか。今後、われわれが問われ続ける課題である。しかも、反対運動や阻止闘争というものは、その対象が既成事実化されていくと、どうしてもあきらめが生まれる。さらに闘いでの敗北がつづくと、重たい敗北感すら垂れ込めてくる。
 これを短期間で解決するような正解はあるのだろうか。それはありえない。ひとびとの意識も絡んでいる問題なのだ。時間をかけてつくられてきたものは、やはり時間をかけて押し戻していくしかないのであろう。
 まず、必要なことは決してあきらめないことだとまずは肝に銘じよう。あきらめることなく、声を出し続け、その声を広げる努力を続けるしかない。まずは事実を知らせるところからだ。その事実に危機感を持つ人たちを核として、考える力、さらに広げ訴える力を獲得していくことだ。小さな一歩、小さな前進しか生み出せないかもしれないが、できることを地域から着手していこう。三上監督のスピンオフ作品の上映運動もそのひとつだ。  
上野恵司(平和運動研究会)