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寄稿
パリ・コミューン150年
今村 稔

2021/06/08
 世界で初めての労働者階級を中心とした社会主義政権の誕生であるパリ・コミューンから今年で150年。それに因んで今村稔さん(社会主義協会・元代表)から寄稿していただいた。【編集部】
 
 本年は、パリ・コミューン150年である。パリにおいて労働者が、1871年3月18日から5月28日までの72日間にわたって、世界で初めての社会主義政権の炬火をかかげたのが、パリ・コミューンである。
 今、話題となっている渋沢栄一は、パリ万国博の幕府代表団の随員としてパリに滞在し、フランス資本主義を観察したのであるが、パリ・コミューンはその2年後のことである。
 パリ・コミューンについては聞いたことも、学んだこともないという人は決して少なくないであろうが、それらの人びともパリ・コミューンで生まれた歌「起て、飢えたる者よ……」という「インターナショナル」なら、知っている、歌ったこともあるという人達も相当数にのぼるに違いない。
 
パリ・コミューン前史
パリ・コミューンが起こる前を20年ほど遡ってみよう。1848年の2月革命後に続いた社会的混乱は、民衆の間に嫌気と「英雄待望」を蔓延させた。最も偉大なフランス人として、なおもその名を懐かしまれていたのは皇帝ナポレオン1世であったが、その甥ルイ・ナポレオンはこの空気に乗じて、大統領に当選(48年12月)、権力強化のためのクーデター(51年12月)、帝政を布き、ナポレオン3世として皇帝に就任(52年12月)と、権力の座を登りつめていった。帝政は20年後の70年9月に廃止される。
 ルイ・ナポレオンの第2帝政20年の前年(1850年代)は、世界的にもゴールド・ラッシュの影響などもあり、経済は好況に推移し、産業革命は仕上げの局面にあった。労働者の運動など大衆運動も、抑圧と懐柔の両面を駆使した皇帝の策に取り込まれ、沈滞気味であった。
 ロッシュ駐日フランス公使などをつうじて、混乱する日本の幕末政治に、フランスがイギリスと張り合って介入を強めるのも、この時期であった。
 しかし、後半期つまり60年代になると、皇帝にプラスをもたらしていた前半期の諸条件は様相を変える。経済発展はフランスを、恐慌など動揺を大きくする世界経済に一層強く巻き込んでいく。67年恐慌を契機としてストライキなどが相次ぎ、労働運動は高揚する。さらに選挙では皇帝批判派が伸長し、帝政の足元は揺らぐ。
 伯父ナポレオンの威光を背中に背負っていなければならない者の宿命として、外征が頻繁となる。初期のクリミア戦争こそナポレオン3世の威名をとどろかせたが、つづくイタリア統一戦争に対する干渉、メキシコ遠征などはいずれも権威失墜を招く結果に終わった。なによりも自己への赫々たる名声を望むナポレオン3世にとって、苛立ちのもとは隣国プロイセンの「鉄血宰相」ビスマルクであったが、彼の仕掛けた罠ともいうべき普仏戦争に釣り込まれた(70年7月)。
 結着はたちまちついた。9月、ナポレオン3世、捕虜となる。71年1月、休戦条約の成立。
 
 9月4日の蜂起と国防政府
 皇帝権力のかくも惨めな崩壊に接して、9月4日、50万のパリの民衆は立法院に押し寄せ「帝政廃止・共和制の宣言」を求めた。
 集まった市民は、労働者や下層を代表する人たちや革命派としてたたかいの先頭に立ってきた人たちが政権に加わることを求めたが、ブルジョア議員たちは「敵(プロイセン軍)がパリの城門に迫っている」ことを強調し、挙国一致の叫びのもとに、労働者派や革命派を排除し、パリ防衛司令官だったトロシュを首班とし、ブルジョア共和派を主力とする国民政府を成立させた。
 しかし、何よりのパリを守り、生活を守ろうと真剣にしていたのは、排除された労働者派であり、革命派であったのであり、敵であるプロイセン軍よりもプロレタリア派を恐れていたのはブルジョアたちであったのある。
 体よく政権から遠ざけられ排除されたかたちの労働者派、革命派であったが、彼らはパリ20区のレベルで旧帝政時代の官吏などを追放、逮捕し、新市政機関と国防政府の行動を監視する活動委員会の必要を訴えた。下からの創意によって組織された民衆機関「パリ20区共和主義中央委員会」(20区中央委)が出現した。
 
 3月18日の革命
 勝利したプロイセン(ドイツ)軍は、怒涛の如くパリに迫る。1871年1月18日は占領したベルサイユ宮殿でドイツ帝国成立の儀式が挙行された。
 一方、帝政崩壊後につくられたトロシュの国防政府は、パリ市民の抗戦の熱意に押されて、たたかうポーズを示すが、本音は、各区の代表によって組織され次第に革命化する20区中央委員会と武装する国民軍の抑圧を狙っていた。
 抗戦、そして包囲下で厳しくなる生活維持(だんだん社会主義化を示すようになる)を真剣に追求しようとしない国防政府と20区中央委員会との衝突は繰り返され、その都度エスカレートしていく(70年10月31日、71年1月22日)。
 革命化していくパリに対して、一部を除いて反動的なまま残されている地方という政治情勢の中で国防政府はひそかにすすめていた休戦条約締結のための国民議会選挙を実施した。2月8日に行われた選挙は、パリでは急進派が圧勝となったが、他の地域では対照的な結果となった。ボルドーで開かれた国民議会は、札つきのティエールを行政長官に指名した。このティエールが最後にコミューンを弾圧することになる男である。
 ティエールは、ドイツと講和条約を結び、ビスマルクの援助を得ながら、パリのコミューンを攻撃するために牙を研ぐ作業に集中していた。3月17日から18日にかけて、ティエールの政府は正規軍のすべてを動員し、国民軍を攻撃。武装解除を行い、コミューンの全中央委員を逮捕する準備をすすめていたのである。
 しかし、正規軍の奇襲(国民軍の大砲をすべて奪おうとする)は計画以上の時間を要し、国民軍の反撃出動を呼び起こし、女性も多く含む民衆の決起が、大砲を保管する各地で見られた。それに加えて、政府側の正規軍が政府の指令に従わず、コミューンと国民軍の側に合流した。敗報に接したティエールは、パリを放棄し、政府をベルサイユ宮殿に移した。パリは旧勢力が退去し、コミューンが掌握した革命の都市となった。
 かくして、3月18日は、歴史上、世界最初の労働者権力が樹立された日となった。マルクスは、パリに労働者の社会主義政権を樹立する試みを準備不足で正しくないと警告していたが、歴史に立ち向かおうとする姿を見せた時、そこに現れた崇高さに感動し、「天をも衝く」人たちだと賛辞を呈した。敗北が予見される歴史に含まれる、そして未来の歴史に必ず生かされる教訓を明らかにしなければならないとした。これに学んだレーニンは、「パリ・コミューンの貴重な教訓がなかったならば、ロシア革命はありえなかった」とくどいほど述べている。
 パリ・コミューンと反動ベルサイユのたたかいは、それ以降70日余続いた。ベルサイユ派は、戦争をはじめあらゆる手段を弄してコミューンを抹殺しようとした。挑発を重ね、2か月かけて包囲網を締め上げてきた。その中で、コミューンは将来の社会主義のための貴重な理論的財産を積み上げていった。たとえば国家の問題として、搾取するための今までの国家と、搾取をなくすための(過渡的)国家は本質的に異なるものであるということ、などである。また、フランス銀行を接収しなかったことなど、反動派とのたたかいで消極的であったことなどネガティブな教訓も残した。
 
 連盟兵の壁
 古来、階級が激突した時の弾圧の悲惨さは歴史上、語られているが、総じて言われていることは、抑圧階級が被抑圧階級に加える桁はずれの陰惨ぶりは、その逆ではないということである。
 5月27日、28日に、勝利したベルサイユ派がコミューン派(連盟兵)に加えた血の攻撃とテロリズムは、世界史上その例を見ないと言われている。
 5月中旬になり、ベルサイユ派による周辺の要塞や駅の占拠などが始まり、ベルサイユ派のパリ城内侵入により、「血の週間」が開始される。市街戦の開始。ペール・ラシューズ墓地に追い詰められて行くコミューン兵に対する大虐殺。今に至るも墓地の壁は大々的な銃殺が語り草、名所となっている。
 たたかいが終わった後のベルサイユ派の裁判(裁判によらない処刑は数知れず)の結果は370名が死刑、410名が強制労働、4,000名が要塞禁錮、3,500名が流刑(ニューカレドニア諸島)となった。
 今、マロニエは昔ながらに香り、「血の週間」から150年を迎えているが、インターナショナルの歌声は消えず、ペール・ラシューズの壁を訪れる人は絶えない。(いまむら みのる)