新社会兵庫ナウ

おんなの目(2022年5月18日号)

2022/05/18
沖縄へ思いを馳せる
 
 関西に暮らすようになって40年になる。山歩きが好きで自然保護に関心があり、たまたま何かのイベントで「石垣島・白保に空港をつくらせない大阪の会」の存在を知った。貴重な青サンゴの海を埋め立てて空港建設をするなんて!という気持ちで入会したのが1986年。定期的に送られてきた石垣島白保の空港建設についてのニュースを通し、沖縄へは行ったことがなくても、白保の海や沖縄文化に出会いたいと思い、「白保一坪共有運動」の共有地主となった。そのことで、次々と計画が進む状況や建設阻止のための裁判の動きなどを知ることができ、沖縄県八重山支庁新石垣空港建設課からも手紙が届くようになった。1990年11月に大田革新知事誕生。地元の粘り強い闘い、全国の自然保護団体・個人の支援で白保海上案は消えて、1998年稲嶺知事となり、2000年にカラ岳陸上案となった。2006年に仲井眞知事から地権者宛に空港整備事業の着工の手紙を受け取り、2013年に新石垣空港が完成した。
 前置きが長くなったが、新空港の開港前に飛行機ではなくフェリーで石垣島に実家の母と一緒に訪問した。2月なのに穏やかな美しい海を眺めながら路線バスで島を一周し、竹富島で星砂を拾って土産とした。
 2018年の夏にタイ在住の友人Nさんと沖縄空港で合流し再び石垣島への訪問。Nさんの知人が大阪から移住されているという。この時に石垣島では自衛隊の施設ができることで、島はきな臭い動きがあるということを知り心がざわついた。
 この春に母を見送り、ポケットに忍ばせた母の遺骨の欠片をそっと竹富島の渚に投げ入れた。
 この旅の目的は石垣島と名護の辺野古新空港建設阻止のささやかな応援だった。本島に行って辺野古行きに同行してくださった現地の陶芸家の方との雑談で沖縄につながるきっかけの「白保の会」を話したらこの方も白保の地権者をされていたという縁がつながった。辺野古のゲート前の座り込みに一緒に参加して、ご他聞にもれず私たちも本土からの若い警備隊によってゴボウ抜きのようにして一人ひとり引き抜かれてゲートから運び出された。抵抗すると怪我をするからと言われて力を抜いて移動させられた時に私があんまり悲しい顔をしたのか、「痛いところはないですか」と聞かれたので「身体よりも心が痛い」と答えたことが忘れられない。
 かつて、沖縄米軍基地は米兵がベトナムへ、イラクへと移動していく拠点だった。現在も日本政府は沖縄県に米軍基地を押しつけ、さらに自衛隊の基地までもがじわりじわりと施設をつくりだしている。『戦争』を二度と繰り返さないと決めたはずなのに、ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにして“沖縄”が抱えた苦難と共に、『戦争』によって平和な暮らしを壊される世界中の人に向けて武器による破壊的な暴力を止めるためにどうしたらいいのかと呆然とする日々か続いている。(あけびの会 I.T)