新社会兵庫ナウ

若者のひろば(2022年4月27日号)

2022/04/27

心のバリアフリー
 
 私は学生時代、大学の自治寮の学生たちが中心を担っているある障がい者の介護活動に数年間参加していました。そこで触れたある言葉が今も記憶に残っています。それは、設備と同じくらい『心のバリアフリー』が大切、という言葉です。たとえば車椅子用にスロープが設備されても、平たんな道に物が道幅を狭めるように配慮なく置かれたら階段の段差より大きな負担となるという意味です。
 当時の寮生たちの間には介護に携わる人とそうでない人たちで心の壁がありました。ある時、事務室当番の学生が介護関係の電話対応が面倒で、介護の学生に取り次ぐことを怠る事件があり、寮生皆で話し合いました。参加者は概ね、当番者は職責は果たすべきだったと述べましたが、職責を全うしない点が誤りで、障がい者の電話だから面倒で切ったという障がい者差別にまで言及する者は少数でした。その違和感で私は、自分が介護している人は発話が苦労のいる行為であるから会話のスピードは遅い。しかし、電話が介護者に通じないことは生活の営みが成り立たない事態に直結する重大な問題なのだと知ってほしいと言いました。
 その途端、矢継ぎ早に周りから「障がいの苦労を知るとか、学ぶとかのために俺たちに要求される負担、苦労は考慮されないのか?」と強い語気で攻撃されました。私は、彼らのいう学ぶ苦労、言い換えると障がいを理解する難しさを知っています。なぜなら私もまだまだ理解の不足した未熟な人間だからです。ただ私は彼らが、理解しようとする気持ち、という理解の大きな前提条件を持っているとは思えませんでした。だから彼らは理解の苦労を訴えたのでなく、対話でお互いのことを理解することを、『労力』の言葉を盾に拒否したのです。
 今、冷静に思い返して感じるのは、差別はいけないという当たり前だけど当たり前でない気持ちと、差別問題を理解しようという開かれた姿勢が大切ということです。差別という言葉は難解です。理論を知りつくして実践するのは大変です。それ故、差別したくない人も、差別問題の知識を学んだ人も、時に差別的な言動をしてしまいます。だからこそ、理解の以前に、仲間である人間の苦しかったり悲しかったりする気持ちへ寄り添う心と、他人をただすのみならず自分をも省みて誤りを認め、直していく姿勢がなくてはいけません。それらなくして理論、理屈のぶつけ合いだけではせいぜい表面的な解決しか生まれないでしょう。現実の世界から感じ取った、人間の気持ちに寄り添い、自分なりにそこから学ぼうとする気持ちが、差別のない、障がい者に限らずみんなが安心して暮らせる社会をつくる主体、変革者を生み出す大切な前提だろうと思います。(八巻 光)
(2022年4月13日号)