ひょうごミュージアム

ひょうご碑物語54
旧明石藩台場跡(舞子砲台)
(神戸市垂水区東舞子町)

2022/03/09
1854年、明石海峡にロシアの船が姿を見せたことにより幕府に命じられて明石藩は砲台を築造した
 米艦隊を率いてペリーが来航。これを機に、日米和親条約が締結された1854(安政元)年、ロシアのディアナ号が明石海峡に姿を見せたことから、幕府は急遽、大阪湾防衛計画を策定。周辺諸藩に対し、台場築造や大砲鋳造を命じた。
 幕府から1万両を貸与された明石藩は、幅4㎞の明石海峡を通過する外国軍艦を挟撃するために、淡路島北端の松帆台場とともに、舞子にも幅70m、高さ10mの総石垣造の台場を築造した。『明石名勝古事談』(橋本海関著)によれば、砲門15基が設けられ、背後に5か所の石造りの円形門があったと記されている。ただ、大砲や砲弾庫、兵舎などは維新を迎えたために実戦的な配備には至らなかった。
 砲台は明治末期の火災で上部が撤去されたため、現在は台場と石垣の一部が地表に露出しているだけだ。石碑(写真)がなければ、その存在すら分かりづらい。
 ところで、勝海舟は徳川家茂に随行し、舞子を訪れた際(1863年)、将軍に直訴、神戸海軍操練所(塾頭=坂本龍馬)設置の許可を得ている。
【メモ】JR舞子駅から南西に4分。山陽電車舞子駅から5分。