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手記 コロナに感染
「軽症」と「自宅療養」の過酷
2022/03/08
コロナに感染
2月3日夜、軽いだるさを覚え、熱を測ると36・7℃あり、早めに床に就く。その夜中に発熱し、眠れぬまま朝を迎える。喉に痛みがあり、職場には休みの連絡を入れ、念のためにコロナの検査を受けると伝える。この時は、まだ疲れからの熱だろうと、コロナ感染は考えていなかった。
近くの個人病院で、これで3度目になる検査を受ける。病院の駐車場で車に乗ったまま鼻に綿棒を入れられ、しばらくそのまま待った後、陽性の診断を伝えられた。咳止めと痰をきる薬を処方され、薬剤師が車まで持ってきてくれた。
それから1週間、ベッドの中で苦しむことになるのだが、症状は、高熱と喉の痛みが主なものだった。医者にかかったのは夕方だったが、その夜に保健センターから電話があった。10日間の自宅療養を言い渡され、昼と夜の連絡先と携帯電話の番号を教えてくれる。北区役所の番号だった。次の日に、自宅のポストに封筒が投函され、中にはパルスオキシメーターと「宿泊療養施設のしおり」が入っていた。希望すれば神戸市に5つある療養施設に入れるようだった。しかし、高齢者や基礎疾患があり重症化の可能性がある者は対象外となっていた。その人たちがなぜ入れないのか、理由が分からない。そういう人たちこそ、すぐに対応できる場所にいるべきではないのだろうか。
「軽症」と言っても…
私はいわゆる「軽症」患者になるのだろうが、年齢65歳、無呼吸症候群の持病があるため、大変苦しい思いをした。一口に「軽症」といっても、その症状による違いはかなり幅広いと思う。私の場合、高熱と喉の痛みが大きかった。オミクロン株の特徴として肺炎になる可能性は低いといわれているが、喉で繁殖しているウイルスが肺にまで達した時の恐怖はずっとあり、命の危険を感じていた。それに睡眠時無呼吸による酸素濃度の低下が加わり、本当に苦しかった。パルスオキシメーターで測れるのは起きている時だけなのだが、それでも境界線の95前後を数字が行き交っていた。眠るときシーパップという医療器具を付けるのだが、苦しさでそれを外すことも多々あり、寝ている時にどれくらい酸素濃度が下がっているのか測定のしようもなく、毎夜が眠れない長い苦しい時間となっていた。
「自宅療養」の過酷さ
その影響かそのうち血圧が高くなり、150〜160の値を示しだした。発症前は135ほどで、最近少し高めではあった。発症して4日目だったか、眠れぬまま夜中に測ってみると180を超えていた。頭はずっと張りつめた感じが続いていたので、夜間の電話番号にかけ、保健センターにつなげてもらった。水分を多めに取るよう指示を受け、朝まで様子を見ることになったが、もし頭が割れるように痛くなった時は救急車を呼ぶようにと言われた。その晩は朝まで不安な思いで過ごしたが、幸い頭痛は起こらず血圧も160ほどに下がっていた。苦しい時、夜中に対応してくれた保健センターの職員の声には本当に励まされた。何かあった時には対応してもらえるという安心感が気持ちを少し楽にしてくれたように思う。
加えて私の場合、妻が世話をしてくれ、うつさないだろうかと心配しながらも、本当に助かった。もし一人暮らしでこの状況だったら、不安と苦しさは10倍も20倍も大きかっただろうと思う。
「軽症」という言葉で見過ごされるこの病気の怖さ、そして「自宅療養」の過酷さを文字通り身をもって知ったこの数日間だった。
大阪ではあまりの患者の急増に、とうとう65歳未満の「軽症」の感染者には保健所から連絡をとらないことになったと聞く。今でさえ私のような人が、行政や病院と繋がれず、自宅で苦しい思いをしているというのに、「軽症」の一括りで行政から切り離すことに怒りを覚える。
それはもはや政治でない。「維新政治」がこれまで行ってきた行政サービスの縮小・撤退がこの事態を引き起こしたという事実を突きつけて、そのまやかしの政治を暴かなければと思う。同時に、その道を追随しようとしている久元神戸市政への追及もしていかなければならないとも思う。
「軽症」に油断せずに
北総支部の仲間にコロナ感染を伝えると、息子や娘がコロナにかかったという事実を何人からか聞かされた。私の息子の友だち一家も、夫婦と子ども3人が全員感染したと後で聞いた。身近にこんなに感染者がいたことに驚く。
療養期間の10日目に保健センターから連絡が入り、次の日から普通の生活をしてもいいことになった。しかし、咳がなかなか治まらず、このままで職場復帰は無理と考え、医者に診断書を出してもらいもう1週間病休を取ることにした。結局、3週間近くこの病気に苛まれることになった。日常的に血圧の薬を飲むことにもなった。何はともあれ、「軽症」という言葉に油断をせずに、十分に気をつけて生活することが肝要だと思う。
(北総支部・渡辺修二)
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2月3日夜、軽いだるさを覚え、熱を測ると36・7℃あり、早めに床に就く。その夜中に発熱し、眠れぬまま朝を迎える。喉に痛みがあり、職場には休みの連絡を入れ、念のためにコロナの検査を受けると伝える。この時は、まだ疲れからの熱だろうと、コロナ感染は考えていなかった。
近くの個人病院で、これで3度目になる検査を受ける。病院の駐車場で車に乗ったまま鼻に綿棒を入れられ、しばらくそのまま待った後、陽性の診断を伝えられた。咳止めと痰をきる薬を処方され、薬剤師が車まで持ってきてくれた。
それから1週間、ベッドの中で苦しむことになるのだが、症状は、高熱と喉の痛みが主なものだった。医者にかかったのは夕方だったが、その夜に保健センターから電話があった。10日間の自宅療養を言い渡され、昼と夜の連絡先と携帯電話の番号を教えてくれる。北区役所の番号だった。次の日に、自宅のポストに封筒が投函され、中にはパルスオキシメーターと「宿泊療養施設のしおり」が入っていた。希望すれば神戸市に5つある療養施設に入れるようだった。しかし、高齢者や基礎疾患があり重症化の可能性がある者は対象外となっていた。その人たちがなぜ入れないのか、理由が分からない。そういう人たちこそ、すぐに対応できる場所にいるべきではないのだろうか。
「軽症」と言っても…
私はいわゆる「軽症」患者になるのだろうが、年齢65歳、無呼吸症候群の持病があるため、大変苦しい思いをした。一口に「軽症」といっても、その症状による違いはかなり幅広いと思う。私の場合、高熱と喉の痛みが大きかった。オミクロン株の特徴として肺炎になる可能性は低いといわれているが、喉で繁殖しているウイルスが肺にまで達した時の恐怖はずっとあり、命の危険を感じていた。それに睡眠時無呼吸による酸素濃度の低下が加わり、本当に苦しかった。パルスオキシメーターで測れるのは起きている時だけなのだが、それでも境界線の95前後を数字が行き交っていた。眠るときシーパップという医療器具を付けるのだが、苦しさでそれを外すことも多々あり、寝ている時にどれくらい酸素濃度が下がっているのか測定のしようもなく、毎夜が眠れない長い苦しい時間となっていた。
「自宅療養」の過酷さ
その影響かそのうち血圧が高くなり、150〜160の値を示しだした。発症前は135ほどで、最近少し高めではあった。発症して4日目だったか、眠れぬまま夜中に測ってみると180を超えていた。頭はずっと張りつめた感じが続いていたので、夜間の電話番号にかけ、保健センターにつなげてもらった。水分を多めに取るよう指示を受け、朝まで様子を見ることになったが、もし頭が割れるように痛くなった時は救急車を呼ぶようにと言われた。その晩は朝まで不安な思いで過ごしたが、幸い頭痛は起こらず血圧も160ほどに下がっていた。苦しい時、夜中に対応してくれた保健センターの職員の声には本当に励まされた。何かあった時には対応してもらえるという安心感が気持ちを少し楽にしてくれたように思う。
加えて私の場合、妻が世話をしてくれ、うつさないだろうかと心配しながらも、本当に助かった。もし一人暮らしでこの状況だったら、不安と苦しさは10倍も20倍も大きかっただろうと思う。
「軽症」という言葉で見過ごされるこの病気の怖さ、そして「自宅療養」の過酷さを文字通り身をもって知ったこの数日間だった。
大阪ではあまりの患者の急増に、とうとう65歳未満の「軽症」の感染者には保健所から連絡をとらないことになったと聞く。今でさえ私のような人が、行政や病院と繋がれず、自宅で苦しい思いをしているというのに、「軽症」の一括りで行政から切り離すことに怒りを覚える。
それはもはや政治でない。「維新政治」がこれまで行ってきた行政サービスの縮小・撤退がこの事態を引き起こしたという事実を突きつけて、そのまやかしの政治を暴かなければと思う。同時に、その道を追随しようとしている久元神戸市政への追及もしていかなければならないとも思う。
「軽症」に油断せずに
北総支部の仲間にコロナ感染を伝えると、息子や娘がコロナにかかったという事実を何人からか聞かされた。私の息子の友だち一家も、夫婦と子ども3人が全員感染したと後で聞いた。身近にこんなに感染者がいたことに驚く。
療養期間の10日目に保健センターから連絡が入り、次の日から普通の生活をしてもいいことになった。しかし、咳がなかなか治まらず、このままで職場復帰は無理と考え、医者に診断書を出してもらいもう1週間病休を取ることにした。結局、3週間近くこの病気に苛まれることになった。日常的に血圧の薬を飲むことにもなった。何はともあれ、「軽症」という言葉に油断をせずに、十分に気をつけて生活することが肝要だと思う。
(北総支部・渡辺修二)