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1千回を超えたスタンディング
1人で立って”平和”をアピール
吉村平さん(甲東平和の会)
2022/01/20
朝夕1時間ずつ国道171号線に立ってメッセージボードを掲げるスタンディングは去年の9月で1千回を超えた
阪神間と京都を結ぶ国道171号線。大型車両やマイカーなど、ひっきりなしに行き交う西宮市丸橋町で、朝夕、段ボールでつくったメッセージボードを掲げる高齢の男性が話題になっている。吉村平さん(82歳)で、去年9月でスタンディングを始めて1千回を超えた。アピールの中心は、「平和」。吉村さんの旺盛な活動の源泉はどこからきているのか。スタンディングの現場を訪ねた。
辺野古の埋め立てが始まった2018年12月、吉村さんは沖縄を訪問、稲嶺名護市長をはじめ反対運動に取り組む人びとと交流、激励行動を行った。「これをきっかけに立ち番(スタンディング)を始めた」という。当初は交通の邪魔になるなどの嫌がらせや警察に通報されたりしたが、「主権者としてやっている」と話し込む一方で、「当たり前の風景になるように毎日立ち番をやろう」と決意。以来、朝夕1時間ずつ立ち続けている。
いまでは、「おはよう」「お帰り」のあいさつが当たり前になり、警察官も会釈していくようになった。一昨年5月に、検察庁改正法案が問題になったときは、近くのコンビニにいた学生たちからカンパが寄せられたことも。徐々にではあるが、運動の広がりを実感している。
その吉村さんが平和運動に取り組むようになるのは、子どもの頃の悲惨な戦争体験と父親の教育があったからという。
戦争末期。「5、6歳の時に見た光景が忘れられない。すぐ近くの川西航空機の工場(紫電改を製造。現在の阪神競馬場)に徴用で送り込まれる朝鮮人を含む新兵の隊列や空を覆う200機以上のB29の轟音。空襲で火の海になった工場地帯など、2度と見たくないですね」と語気を強める。
そして、「自分の意見を持て」と教えてくれた父親に感謝していると語る。子どものころ、某新聞のコラム「今日の社会問題」を読ませて、どう思うのか、意見を言わせる。言わないとご飯はお預けにされたという。
小・中学生のときは新聞配達で家計を助け、定時制高校を経て工務店に。運動に入るきっかけは、仁川ピクニックセンターであった平和友好祭。「キャンプファイヤー用に枕木を運んだことや仲間たちとの交流が忘れられない」と語る。
土建労組の運動や区画整理問題に関わるなかで、法律を知らなすぎると50歳から近畿大学で学んだ。
平和運動に本格的に取り組むことになったのは、2015年のガイドライン(日米防衛協力指針)改定反対運動から。地域の仲間に呼びかけて「甲東平和の会」を約90人で立ち上げ、コロナ以前は年4回の講演会に取り組んできた。
「朝夕、街頭に立って子どもたちと接していると明るい将来が必ず来ると感じる。自公や維新に負けない運動をつくりたい」と語る吉村平さん。2022年初めの講演会はサーロー節子さんの核禁条約制定運動をテーマに開催することにしている。(鍋島)
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阪神間と京都を結ぶ国道171号線。大型車両やマイカーなど、ひっきりなしに行き交う西宮市丸橋町で、朝夕、段ボールでつくったメッセージボードを掲げる高齢の男性が話題になっている。吉村平さん(82歳)で、去年9月でスタンディングを始めて1千回を超えた。アピールの中心は、「平和」。吉村さんの旺盛な活動の源泉はどこからきているのか。スタンディングの現場を訪ねた。
辺野古の埋め立てが始まった2018年12月、吉村さんは沖縄を訪問、稲嶺名護市長をはじめ反対運動に取り組む人びとと交流、激励行動を行った。「これをきっかけに立ち番(スタンディング)を始めた」という。当初は交通の邪魔になるなどの嫌がらせや警察に通報されたりしたが、「主権者としてやっている」と話し込む一方で、「当たり前の風景になるように毎日立ち番をやろう」と決意。以来、朝夕1時間ずつ立ち続けている。
いまでは、「おはよう」「お帰り」のあいさつが当たり前になり、警察官も会釈していくようになった。一昨年5月に、検察庁改正法案が問題になったときは、近くのコンビニにいた学生たちからカンパが寄せられたことも。徐々にではあるが、運動の広がりを実感している。
その吉村さんが平和運動に取り組むようになるのは、子どもの頃の悲惨な戦争体験と父親の教育があったからという。
戦争末期。「5、6歳の時に見た光景が忘れられない。すぐ近くの川西航空機の工場(紫電改を製造。現在の阪神競馬場)に徴用で送り込まれる朝鮮人を含む新兵の隊列や空を覆う200機以上のB29の轟音。空襲で火の海になった工場地帯など、2度と見たくないですね」と語気を強める。
そして、「自分の意見を持て」と教えてくれた父親に感謝していると語る。子どものころ、某新聞のコラム「今日の社会問題」を読ませて、どう思うのか、意見を言わせる。言わないとご飯はお預けにされたという。
小・中学生のときは新聞配達で家計を助け、定時制高校を経て工務店に。運動に入るきっかけは、仁川ピクニックセンターであった平和友好祭。「キャンプファイヤー用に枕木を運んだことや仲間たちとの交流が忘れられない」と語る。
土建労組の運動や区画整理問題に関わるなかで、法律を知らなすぎると50歳から近畿大学で学んだ。
平和運動に本格的に取り組むことになったのは、2015年のガイドライン(日米防衛協力指針)改定反対運動から。地域の仲間に呼びかけて「甲東平和の会」を約90人で立ち上げ、コロナ以前は年4回の講演会に取り組んできた。
「朝夕、街頭に立って子どもたちと接していると明るい将来が必ず来ると感じる。自公や維新に負けない運動をつくりたい」と語る吉村平さん。2022年初めの講演会はサーロー節子さんの核禁条約制定運動をテーマに開催することにしている。(鍋島)