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ひょうご 碑物語
『境橋碑 (姫路市網干区)』
2020/01/21
姫路市網干区は揖保川の河口に位置し、中世より瀬戸内海の海運の要衝として栄えた。
約50年前、その網干区の興浜地区と新在家地区の間を南北に流れる小川を暗渠にする計画が持ち上がった時、そこに架かっている小さな石の橋がにわかに話題となった。橋の撤去を惜しみ、橋の欄干に掘られた「境橋」の文字を拓本にする人も大勢訪れた。「境橋」は、歴史的な橋だったのだ。
江戸時代の初め頃、網干は姫路藩領だったが、寛永14年(?年)、龍野の京極藩の領地となった。しかし、万治元年(1658年)、京極家は讃岐の丸亀藩に移封された。この時、網干は興浜地区と新在家地区に分けられ、西の興浜は、丸亀藩の飛び地として引き続き京極家が治めることになった。そのため、丸亀藩は興浜地区に陣屋(網干陣屋)を設け、代官、奉行を置き、興浜と新在家の間を流れる小川に架かる「境橋」を1日2回だけ開き通行を許したと言われている。つまり、興浜地区は、幕末までの約230年間、「姫路の中の讃岐」となっていたのだ。
現在、「境橋」の欄干は、そのままの形で道路の脇に移転され、保存されている。
【メモ】山陽電鉄網干駅から徒歩で南西へ約15分。
(森山)
写真:小川の暗渠化に伴う歴史的な橋の撤去を惜しんで欄干がそのままの形で道路脇に移された
2020年1月21日号
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約50年前、その網干区の興浜地区と新在家地区の間を南北に流れる小川を暗渠にする計画が持ち上がった時、そこに架かっている小さな石の橋がにわかに話題となった。橋の撤去を惜しみ、橋の欄干に掘られた「境橋」の文字を拓本にする人も大勢訪れた。「境橋」は、歴史的な橋だったのだ。
江戸時代の初め頃、網干は姫路藩領だったが、寛永14年(?年)、龍野の京極藩の領地となった。しかし、万治元年(1658年)、京極家は讃岐の丸亀藩に移封された。この時、網干は興浜地区と新在家地区に分けられ、西の興浜は、丸亀藩の飛び地として引き続き京極家が治めることになった。そのため、丸亀藩は興浜地区に陣屋(網干陣屋)を設け、代官、奉行を置き、興浜と新在家の間を流れる小川に架かる「境橋」を1日2回だけ開き通行を許したと言われている。つまり、興浜地区は、幕末までの約230年間、「姫路の中の讃岐」となっていたのだ。
現在、「境橋」の欄干は、そのままの形で道路の脇に移転され、保存されている。
【メモ】山陽電鉄網干駅から徒歩で南西へ約15分。