ひょうごミュージアム

ひょうご碑物語(2021年3月9日号)

2021/03/09
左が「勘兵衛新田大手囲堤の碑」。右の碑には勘兵衛の長男が父の偉業を継承したと記されている
勘兵衛新田大手囲堤の碑
(姫路市大津区)

 
 姫路で「かんべえ」と言えば、黒田官兵衛を思い浮かべる人が多いと思うが、それとは別の有名な「かんべえ」もいる。 姫路市大津区から広畑区にかけての浜側の低地には蓮畑が広がり、夏には独特の葉が畑を埋め、大輪の花が咲く。秋には泥の中でレンコンが収穫される。この広大な地を干拓したのが三木勘兵衛だ。
 碑には、「天保一三年(一八四二)龍野藩脇坂淡路守の命を受け飾西郡(現 姫路市)則直村の三木勘兵衛に干拓を命じ、翌年着手。弘化元年(一八四四)潮止めに成功。嘉永二年(一八四九)稲黍の試作。同六年(一八五三)下検地により勘兵衛干拓着手以来十一年目にして成功。翌嘉永七年本検地。ここより東に延びる堤防は、旧東汐入川の西岸まで築かれていたが、昭和一二年(一九三七)に日本製鐵広畑製鐵所(現 新日本製鐵)が誘致されるにいたり、元の五分の二を残すのみとなった」とある。
 干拓には、伊予、阿波、安芸などから困民を集め、衣食住、牛馬を与えて開墾させたという。そしてこの地は今も「勘兵衛新田」と呼ばれている。この海抜0m地帯は水はけが悪かったため蓮畑になったと聞く。勘兵衛は干拓完成の年に死去した。
 【メモ】山電平松駅下車。西汐入川沿いに南へ徒歩約20分。河口付近東岸。