新社会兵庫ナウ

おんなの目(2020年10月13日号)

2020/10/17
うちのボランティア活動
 今でこそ災害時のボランティアが当たり前になっていますが、「ボランティア元年」と言われた25年前の阪神・淡路大震災の時にうちが行ったボランティアのことを書いてみます。
  我が家は神戸市垂水区にあり、幸い家屋の被害は少しでした。私は関東の生まれでたびたび揺れを経験していましたが、神戸で生まれ育ち、初めて経験した地震があの地震であった夫のショックは大きく、数日はただ呆然とテレビを見るのみでした。
 その夫が震災から5日後に初めてお風呂に入ったとき、本当に気持ちが良く、生き返る思いだったそうです。それで思い立ち、近くの避難所を車で回り、うちでお風呂に入っていただくボランティアを始めました。当時のうちの風呂はガスと薪のどちらでも沸かせるものでした。震災による倒壊等で薪にする廃材には困りませんでした。
 実はうちは宗教法人で「人助けは本来業務」という面があります。時間もかなり自由に使えるので、それ以来、ほぼ毎日、朝から晩までお風呂を沸かし続け、避難所を回ってお風呂に入りたい人をお連れしました。車は「軽」なのでお客さんは3人、風呂も普通の家庭用なので一度に入れるのは2人ぐらいで、交代で入っていただき、済んだら車で送り、次の方を乗せてくるという毎日でした。私は5才と2才の子どもの世話をしながらお風呂を待つ人の相手をして、お茶や簡単な食事をお出ししていました。
 当時の避難所はコロナもありませんから、学校の教室や体育館にびっしりと密。1家族2畳ほどのスペースで、間仕切りは段ボール箱をせいぜい2つ重ねたくらい。それすら無いところも多かったです。床にペタッと座っても遠くまで見渡せてプライバシーなどあったものではありませんでした。
 お風呂の送迎で避難所を回るうち、配給のお弁当は冷めて固くなっていてお年寄りは食べ辛いという話が聞こえてきました。それで、せめて柔らかくて温かいものを食べていただこうと、朝食の炊き出しを始めました。宗教法人なので普通の家庭よりはたくさんの食器があったのですが、「百均」で新たにお椀を100個買いました。2升の炊飯器に最初はお粥を作り、具だくさんの味噌汁と梅干し、漬物くらいを用意して、週に2〜3回は避難所に行きました。やがて昼食もいろいろなメニューを楽しみながら作り、持って行くと手作りの温かい食事だったので、避難所の皆さんはいつもたいへん喜んで下さいました。炊き出しの半年で日頃の2年分くらいのだしの素を使いきった記憶があります。幼稚園の娘に「今日もひきだし(炊き出しのこと)に行くの?」と聞かれて笑ったのが懐かしいです。
 お風呂のボランティアはその年の7月まで続け、全部で719人の人に入っていただきました。
 今、振り返って思うのは、大規模な自然災害が相次ぐ昨今ですので、また何かあったら一生懸命ボランティアしたい、その時にもし、そうできる自分であったらありがたいなということです。
(女性グループ「あけびの会」T・Y)