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新社会党結党30周年
新社会党結党の頃 5人の国会議員で旗揚げ
新社会党中央執行委員長 岡崎 宏美
2026/01/21
結党の年1996年の総選挙時の際の5人の国会議員による街頭演説
新社会党は今年3月、結党30周年を迎える。矢田部理、山口哲夫、小森龍邦、栗原君子、岡崎宏美の5人の国会議員で旗揚げし、1996年3月3日に結党大会を開いて正式に発足した。その原点の頃について岡崎委員長に語ってもらった。
新社会党の結党は、1995年12月末。1996年1月1日に政党であることが政党要件を持つ団体として認められることになっていたためだ。矢田部理、山口哲夫、小森龍邦、栗原君子(以上、参議院議員)、そして私(衆議院議員)の5人の相談で、矢田部委員長、山口書記長、あとの3人が副委員長と決めて結党の届け出を行った。5人が新社会党を届け出たことを受けて、基本政策を投げうって与党入りした社会党の未来に危機を感じていた全国の仲間たちが、新党に合流したいと声をあげ、1996年3月3日の第1回大会につながった。
社会党(当時、山花貞夫委員長)は、93年7月の総選挙の最中、突如小選挙区制度に賛成すると表明し、選挙後の連立政権入りを表明した。竹下、海部、宮沢と続いた内閣は、リクルート事件などを背景に支持を失い、金権腐敗体質の一掃と企業・団体からの政治献金規制強化が求められたが、是正策を打ち出すことができなかった。
そこに、学者、経済界、労働界、マスコミが参加する民間政治臨調が主導し、中選挙区制度こそが金がかかる政治の根源だから選挙制度の改革(=小選挙区制度)こそが必要、との一大キャンペーンが始まった。問題を抱えた内閣を交代させるには、小選挙区制が有効だとのキャンペーンは、宮沢内閣不信任を可決し、総選挙に追い込んだ(93年7月)。
自民党は過半数を割り、政治改革法成立を実現するための細川連立内閣が誕生した。社会党は、大政党に有利で選挙区で1人しか当選できない、いわゆる「死票」を多く生み、多様な意見を排除する危険性を持つ「小選挙区制度」を長年にわたり反対してきたが、与党の一員になることと引き換えに賛成に転じた。
反対や異議申し立ての声は、社会党の選挙を応援してきた労働組合の多くが民間政治臨調の中心的メンバーでもあった「連合」山岸会長の方針に従い、各組織内議員に対し、「小選挙区制に賛成」するよう一斉に圧力をかけたことで次第に抑え込まれていった。山花委員長は、政権内で政治改革担当大臣に任命され小選挙区制を推進し、94年政治改革関連法が成立した。その後、96年、初めて実施された小選挙区制度の下でかつての社会党議席は大幅に減少したことは、何とも皮肉なことだ。
政治改革関連法の成立後、小選挙区制のもとで行われる選挙をにらみ新党結成の模索が始まる。政党から公認されることが、選挙戦を有利にする第一条件となった。
もっとも混乱したのは、当時の社会党議員だ。細川内閣、羽田内閣の短期政権を経て自・社・さ連立の村山内閣が誕生すると、社会党は基本政策を大転換し、自衛隊合憲や日の丸・君が代の容認、日米安全保障条約の堅持を表明した。議論の結果ではなく、「変えなければ首相の仕事ができない」と説明されたことを覚えているが、自分自身の活動の軸としてきた方針が消えたのだ。是とした議員らも、「社会党では次はない」とその後の民主党につながる新党づくりに走り、納得できない議員も社会党の基本を継承する新党を模索した。
1月の阪神・淡路大震災に始まった1995年という年は、政治的混乱で明け暮れた。震災は、市民が諦めず声を上げる力の必要とその力、ボランティア活動等を認識するきっかけになったが、日本の戦後政治の活動とは何か、議員の活動とは何かを考えさせられた1年だ。
社会党の基本方針を継承する新党結成を模索した者としては、最大時は30人くらいの結集があったものの、後援会や出身組合からの強い圧力と監視を受けて、最後に残った議員が冒頭の5人だったことは、無念としか言えない。神戸で報告した際、「そんな小さい党をつくれと言った覚えはない」とも言われたが自分ではどうしようもない限界だった。
そんな党も今年、30年を迎える。いまで終わりにはできない。明日に何を引き継ぎ、何を育てるかをそれぞれの課題と共に決めていかなければならない、と強く思う。
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新社会党は今年3月、結党30周年を迎える。矢田部理、山口哲夫、小森龍邦、栗原君子、岡崎宏美の5人の国会議員で旗揚げし、1996年3月3日に結党大会を開いて正式に発足した。その原点の頃について岡崎委員長に語ってもらった。
社会党(当時、山花貞夫委員長)は、93年7月の総選挙の最中、突如小選挙区制度に賛成すると表明し、選挙後の連立政権入りを表明した。竹下、海部、宮沢と続いた内閣は、リクルート事件などを背景に支持を失い、金権腐敗体質の一掃と企業・団体からの政治献金規制強化が求められたが、是正策を打ち出すことができなかった。
そこに、学者、経済界、労働界、マスコミが参加する民間政治臨調が主導し、中選挙区制度こそが金がかかる政治の根源だから選挙制度の改革(=小選挙区制度)こそが必要、との一大キャンペーンが始まった。問題を抱えた内閣を交代させるには、小選挙区制が有効だとのキャンペーンは、宮沢内閣不信任を可決し、総選挙に追い込んだ(93年7月)。
自民党は過半数を割り、政治改革法成立を実現するための細川連立内閣が誕生した。社会党は、大政党に有利で選挙区で1人しか当選できない、いわゆる「死票」を多く生み、多様な意見を排除する危険性を持つ「小選挙区制度」を長年にわたり反対してきたが、与党の一員になることと引き換えに賛成に転じた。
反対や異議申し立ての声は、社会党の選挙を応援してきた労働組合の多くが民間政治臨調の中心的メンバーでもあった「連合」山岸会長の方針に従い、各組織内議員に対し、「小選挙区制に賛成」するよう一斉に圧力をかけたことで次第に抑え込まれていった。山花委員長は、政権内で政治改革担当大臣に任命され小選挙区制を推進し、94年政治改革関連法が成立した。その後、96年、初めて実施された小選挙区制度の下でかつての社会党議席は大幅に減少したことは、何とも皮肉なことだ。
政治改革関連法の成立後、小選挙区制のもとで行われる選挙をにらみ新党結成の模索が始まる。政党から公認されることが、選挙戦を有利にする第一条件となった。
もっとも混乱したのは、当時の社会党議員だ。細川内閣、羽田内閣の短期政権を経て自・社・さ連立の村山内閣が誕生すると、社会党は基本政策を大転換し、自衛隊合憲や日の丸・君が代の容認、日米安全保障条約の堅持を表明した。議論の結果ではなく、「変えなければ首相の仕事ができない」と説明されたことを覚えているが、自分自身の活動の軸としてきた方針が消えたのだ。是とした議員らも、「社会党では次はない」とその後の民主党につながる新党づくりに走り、納得できない議員も社会党の基本を継承する新党を模索した。
1月の阪神・淡路大震災に始まった1995年という年は、政治的混乱で明け暮れた。震災は、市民が諦めず声を上げる力の必要とその力、ボランティア活動等を認識するきっかけになったが、日本の戦後政治の活動とは何か、議員の活動とは何かを考えさせられた1年だ。
社会党の基本方針を継承する新党結成を模索した者としては、最大時は30人くらいの結集があったものの、後援会や出身組合からの強い圧力と監視を受けて、最後に残った議員が冒頭の5人だったことは、無念としか言えない。神戸で報告した際、「そんな小さい党をつくれと言った覚えはない」とも言われたが自分ではどうしようもない限界だった。
そんな党も今年、30年を迎える。いまで終わりにはできない。明日に何を引き継ぎ、何を育てるかをそれぞれの課題と共に決めていかなければならない、と強く思う。