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手記 戦後75年に寄せて
「父から姉への手紙」 三木 平(新社会党灘総支部)
2020/08/12
窓越しに見える大阪大空襲の様子をリアルタイムで児童を連れて疎開中の娘に伝える父親の手紙
「ここ数日中に大阪、神戸は必ず再度の空襲(前は焼夷弾だけだったがこんどは爆弾と焼夷弾と混用)があると思われるからえらい目をして危険地へ帰る必要はない……」―いよいよ戦況が厳しくなってきた1945年(昭和20年)3月の父(大阪勤務)から姉への手紙の一部です。
さらに、「本日(六月一日)午前九時頃より第二次大阪市内大空襲があり(主として焼夷弾)、大変だった。投弾地区(大淀、西淀、福嶋、十三,東大正、築港、城東など)今、この手紙を書いている窓から上記の場所が火災を起こして態(ママ)が黒赤い一面にて窺われる。会社の浦江工場もここ守口工場も無事。尼崎、甲東園も無事であるから安心あれ。築港の前の家は焼けていると思われる……」―昭和20年6月1日付、父から姉に送られた手紙は窓越しに煙が上がる街の様子を伝えています。
今は父も姉も亡くなっていますが、最近、姉の遺品を整理していると父から姉への何通もの手紙が出てきました。当時、姉は尼崎市国民学校(現・尼崎市立難波小学校)の教員で、児童の集団疎開が始まった1944年に引率者として、今の三田市や神戸市北区のお寺に滞在していたようです。教師といっても20歳そこそこで、不安な毎日だったに違いありません。
また、「戦争が国家総動員」としてまったく偽りの生活を強いられていることも見ることができます。ある手紙には「〇の命令で防諜上、軍需会社は正式の会社名を使ったらいかぬ事になった。……そして全く別名を作って、〇〇のように書くべし」と姉に指示していました。
当時の様子がわかるものがないかと現地(神戸市北区、三田市の寺)へ出かけましたが資料はないとのことでした(※最近、尼崎市教育委員会に問い合わせたところ、集団疎開などの記録をいただくこともできました)。
あまり聞かされていなかったこともあり、これらの手紙を読んだときは驚きでした。悲惨な戦争は他人ごとではありませんでした。改めて平和運動の大切さを感じたものです。
私は青年時代、原水禁運動に参加することをきっかけにこれまで微力ながら平和運動に参加してきました。5月3日の憲法記念日には「憲法を生かす会・灘」のチラシ配布にも参加し、小学校高学年になる孫と昨年夏、広島にも出かけました。この手紙を読みながら、「悲惨な戦争を語る、伝える」ことを戦後生まれのものでも何かできるのではないか。われわれ大人の責務と言っても過言ではありません。ひと時も「平和を守る、平和憲法を守る」を忘れずに生活していこうと思っています。
(みき ひとし)
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「ここ数日中に大阪、神戸は必ず再度の空襲(前は焼夷弾だけだったがこんどは爆弾と焼夷弾と混用)があると思われるからえらい目をして危険地へ帰る必要はない……」―いよいよ戦況が厳しくなってきた1945年(昭和20年)3月の父(大阪勤務)から姉への手紙の一部です。
さらに、「本日(六月一日)午前九時頃より第二次大阪市内大空襲があり(主として焼夷弾)、大変だった。投弾地区(大淀、西淀、福嶋、十三,東大正、築港、城東など)今、この手紙を書いている窓から上記の場所が火災を起こして態(ママ)が黒赤い一面にて窺われる。会社の浦江工場もここ守口工場も無事。尼崎、甲東園も無事であるから安心あれ。築港の前の家は焼けていると思われる……」―昭和20年6月1日付、父から姉に送られた手紙は窓越しに煙が上がる街の様子を伝えています。
今は父も姉も亡くなっていますが、最近、姉の遺品を整理していると父から姉への何通もの手紙が出てきました。当時、姉は尼崎市国民学校(現・尼崎市立難波小学校)の教員で、児童の集団疎開が始まった1944年に引率者として、今の三田市や神戸市北区のお寺に滞在していたようです。教師といっても20歳そこそこで、不安な毎日だったに違いありません。
また、「戦争が国家総動員」としてまったく偽りの生活を強いられていることも見ることができます。ある手紙には「〇の命令で防諜上、軍需会社は正式の会社名を使ったらいかぬ事になった。……そして全く別名を作って、〇〇のように書くべし」と姉に指示していました。
当時の様子がわかるものがないかと現地(神戸市北区、三田市の寺)へ出かけましたが資料はないとのことでした(※最近、尼崎市教育委員会に問い合わせたところ、集団疎開などの記録をいただくこともできました)。
あまり聞かされていなかったこともあり、これらの手紙を読んだときは驚きでした。悲惨な戦争は他人ごとではありませんでした。改めて平和運動の大切さを感じたものです。
私は青年時代、原水禁運動に参加することをきっかけにこれまで微力ながら平和運動に参加してきました。5月3日の憲法記念日には「憲法を生かす会・灘」のチラシ配布にも参加し、小学校高学年になる孫と昨年夏、広島にも出かけました。この手紙を読みながら、「悲惨な戦争を語る、伝える」ことを戦後生まれのものでも何かできるのではないか。われわれ大人の責務と言っても過言ではありません。ひと時も「平和を守る、平和憲法を守る」を忘れずに生活していこうと思っています。