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ひょうご碑物語93
塩田鎮守神 大黒祠跡の碑(姫路市網干区新在家)
2025/11/26
姫路の網干にも江戸時代の後期から1960年まで塩田があったが、当時の塩田の鎮守神の祠跡
瀬戸内は晴天が多く、製塩に適しており、赤穂や姫路市では大塩の塩田が有名であるが、網干にも塩田があった。
網干の塩田は江戸時代後期に開発が進められ、「入浜式」であった。入浜式塩田とは、塩田の砂に海水を含ませて水分を蒸発させ、塩分を含んだ砂を集めることを繰り返すことによって濃厚な塩水を作り、更に釡で煮詰めることによって塩を作る方法であり、網干では1940(昭和15)年頃には、約150人が作業に従事し、年間200万トンを製塩していたという。しかし、砂を集める作業は重労働であったという。
1950(昭和25)年頃からは「流下式」製塩方が行われるようになった。「流下式」は、たくさんの竹や笹の小枝を組み合わせ、数段に組み立てて上から海水を流下させ、その間に水分を蒸発させる方式であり、網干では、1956(昭和31)年頃にこの製法が取り入れられたが、この製法も「電解式製塩法」の登場により、短期間で終幕となり、網干の塩田は1 9 6 0(昭和35)年に廃田となった。
当時、塩田の鎮守神の祠も作られていたようだが、それも今は、祠跡の碑が佇んでいるばかりとなった。
(森山)
【メモ】山電網干駅から南へ徒歩約20分。問屋川の北の端の緑道公園内。
※アイコンクリックでデータをご覧ください。
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瀬戸内は晴天が多く、製塩に適しており、赤穂や姫路市では大塩の塩田が有名であるが、網干にも塩田があった。
網干の塩田は江戸時代後期に開発が進められ、「入浜式」であった。入浜式塩田とは、塩田の砂に海水を含ませて水分を蒸発させ、塩分を含んだ砂を集めることを繰り返すことによって濃厚な塩水を作り、更に釡で煮詰めることによって塩を作る方法であり、網干では1940(昭和15)年頃には、約150人が作業に従事し、年間200万トンを製塩していたという。しかし、砂を集める作業は重労働であったという。
1950(昭和25)年頃からは「流下式」製塩方が行われるようになった。「流下式」は、たくさんの竹や笹の小枝を組み合わせ、数段に組み立てて上から海水を流下させ、その間に水分を蒸発させる方式であり、網干では、1956(昭和31)年頃にこの製法が取り入れられたが、この製法も「電解式製塩法」の登場により、短期間で終幕となり、網干の塩田は1 9 6 0(昭和35)年に廃田となった。
当時、塩田の鎮守神の祠も作られていたようだが、それも今は、祠跡の碑が佇んでいるばかりとなった。