新社会兵庫ナウ

私の主張(2020年8月18日 合併号)

2020/08/12
戦後75年を迎えて―。
  戦争をいかに語り継ぐか

 
 「戦争はあかん」「二度と戦争したらあかん」―戦争体験を話す父が私たちによく言っていた。1933年、中国「満州国」警備に派遣され、ハトの世話をしていたというが、1年足らずで肺結核で入院し、帰国。1941年、43年と中国へ補充兵として派遣され、また肺結核で帰国という父は、朝鮮人や中国人、初年兵への軍隊内のひどい扱いをよく話していた。上海や南京のような戦闘を体験しなくても、恐怖と隣り合わせの戦地の体験は人が人でなくなる、と言っていた。
 こんな戦争の体験を語る人が周りにいなくなった。また、空襲や原爆、沖縄戦などの体験を語る人も当時は子どもだった世代に移ってきた。40年前はまだ祖父母や曾祖父母から子どもたちは戦争体験について聞くことができた。今は比較的元気な体験者から聞くしかない。希望は、祖父の話、祖母の話を自分の子どもたちにも伝えたい、と家族の戦争体験や戦災死を調べようとしている若い方々がいることである。
 7月31日の神戸新聞では、兵庫県内の平和学習がコロナで激減した、とあった。戦争体験者を呼んで話を聞く授業が感染防止のため取りやめられ、修学旅行で広島や長崎、沖縄に行くことが中止されているという。「神戸空襲を記録する会」、「神戸平和マップをつくる会」への平和学習の要請も次々キャンセルされ、例年の20数校確保は感染拡大の中で難しい。 
 現役の教員だった10数年前、神戸電鉄に乗車し朝鮮人労働者の電鉄工事犠牲者の怒りと無念を考える学習に続いて、空襲の痕を現地に訪ね、碑を読み、体験記を読み調べ当時を知ってほしいと、仲間と授業を進めた。子どもたちは教室での学習とは違う学びをしていて、手ごたえを感じた。
 2012年から、子どもたちや若い人、先生にも、銃後と呼ばれた場所が爆撃にさらされたことを、無残な死が私たちの町にあったことを知ってほしい。そしてそれは、中国や朝鮮、アジアの国々の人々を襲った侵略戦争であり、イランやイラクで、アフガンで起こされた戦争に、今も人々が同じように苦しんでいることに思いをはせてほしい。―そんな思いで「神戸平和マップ」をつくり始めた。「マップ」には、朝鮮人、中国人、連合国軍捕虜の人々の犠牲や、戦死した人々の墓、そこにある親や家族の無念の思い、また南京陥落を祝ったり、戦争を支えたりした日本人のことも知ってほしい、と載せた。中国残留孤児の碑や戦争孤児のことも載せたかった。
 幸い各区の仲間や元同僚、友人の助けもあり、全区の「平和マップ」が完成した。また灘の仲間が、2013年から苦労して行政の助成金を得て灘区、東灘区の小中高校1学年分の配布に取り組んでくださり、「平和マップ」が学校でも市民権を得てきた。夏休みを中心に親子で歩いたり、学校で調べ学習に取り組むところが出てきている。今年は、本の売り上げをもとに、長田区、兵庫区の学校に配布した。
 JR兵庫駅南の兵庫図書館に神戸空襲戦災資料室があるのをご存知だろうか。1982年、神戸空襲を記録する会の努力で中央図書館に戦災資料室がつくられ、市民から寄贈された戦災資料が写真パネルと一緒に展示されていた。1995年の大震災で崩れ、兵庫図書館に小さな戦災資料室として再開された。多くの資料は、中央図書館から今は市役所に保管されている。
 残念なことに、神戸市は現代史部門の学芸員が少なく、資料整理は神戸大学の教授と神戸空襲を記録する会が細々とやっている。空襲関係や神戸空襲を記録する会の文書類、書籍類の保管も課題だが、市民から寄贈されたモノ資料の整理や目録作りが進んでいない。毎年夏に開かれる中央図書館での戦災資料展が、戦後75年の今年はせめて期間を延ばそうという担当者の努力で、8月5日から21日までになった。コロナのおかげで、場所が狭くなり、モノ資料はほとんど置けないのだが、今年は説明をつけようとしている。モノ資料は、「千人針」も「ゲートル」も「火たたき棒」も、私たちはもう説明がないとわからないし、子どもたちは「古い物」とだけ思ってしまう。多くが遺品整理で処分されたり、ネットオークションで扱われているという。しかし、説明や物語があることで、モノは雄弁に当時の暮らしを語ってくれる。
 また、体験集などの再版にも取り組み、今年、「神戸大空襲」(1972年刊)が復刻されることになった。映像の活用も考えたい。
 新たな戦前にしないために、戦争を語り継ぎ、戦争の悲惨さを知り、戦争をしないための力をつくっていきたい。
  小城智子(神戸平和マップをつくる会事務局長、神戸空襲を記録する会事務局長)