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須磨区で防空壕跡などの戦跡巡り
戦跡ガイド養成講座の1プログラム
神戸空襲を記録する会
2025/09/21
今も須磨区に残る戦時の防空壕跡のひとつ=9月21日、神戸市須磨区
神戸空襲を記録する会が主催する「戦跡ガイド養成講座」の一環として9月21日、須磨区の戦跡巡りが行われた。20人あまりが参加して主には防空壕跡を訪ねた。
個人宅に残る地下室防空壕も見学した。日露戦争に参加した祖父、アジア太平洋戦争で戦死した左官業を営んでいた父親が1930年代に作った頑丈な防空壕である。
須磨区にはかつて妙法寺萩の寺に防空壕が残されていたが、2024年の斜面の防災工事の際に参道が整備されてなくなった。今も見ることができるのは、勝福寺裏山の防空壕だ。ここも山崩れで防空壕が埋められ、一つだけ残されている。
かつての神戸の総合商社・鈴木商店の鈴木よねさんの邸宅跡のトンネルも、1945年6月5日の空襲では防空壕代わりに使われたことが「神戸空襲体験記」に書かれている。和歌山からの学徒動員生が、空襲の時に防空壕代わりに入って助かったという。当時は鈴木商店からこの地を買い取った三菱重工が社宅にしていた。当日の参加者から、トンネルを鈴木よねさんが車で通ったことや荷物を運ぶ車が裏門から入ったことなど当時の様子が紹介された。飛松中学校を卒業した参加者からも100m近いトンネルを通ったことがあるとの話があった。今は草が生い茂り、社宅も一部マンションに変わっている。
若木町の原爆模擬爆弾投下地点も通ったが、話を聞かなければ分からないところだ。
須磨区は、空襲による全焼家屋が1万3639棟、死者912人と神戸市史には記録されている。空襲で焼けた木や空襲のあとを物語る慰霊碑などもあり、二度と戦争を引き起こさないためのモニュメントとして残してほしい所が多い。
(小城)
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神戸空襲を記録する会が主催する「戦跡ガイド養成講座」の一環として9月21日、須磨区の戦跡巡りが行われた。20人あまりが参加して主には防空壕跡を訪ねた。
個人宅に残る地下室防空壕も見学した。日露戦争に参加した祖父、アジア太平洋戦争で戦死した左官業を営んでいた父親が1930年代に作った頑丈な防空壕である。
須磨区にはかつて妙法寺萩の寺に防空壕が残されていたが、2024年の斜面の防災工事の際に参道が整備されてなくなった。今も見ることができるのは、勝福寺裏山の防空壕だ。ここも山崩れで防空壕が埋められ、一つだけ残されている。
かつての神戸の総合商社・鈴木商店の鈴木よねさんの邸宅跡のトンネルも、1945年6月5日の空襲では防空壕代わりに使われたことが「神戸空襲体験記」に書かれている。和歌山からの学徒動員生が、空襲の時に防空壕代わりに入って助かったという。当時は鈴木商店からこの地を買い取った三菱重工が社宅にしていた。当日の参加者から、トンネルを鈴木よねさんが車で通ったことや荷物を運ぶ車が裏門から入ったことなど当時の様子が紹介された。飛松中学校を卒業した参加者からも100m近いトンネルを通ったことがあるとの話があった。今は草が生い茂り、社宅も一部マンションに変わっている。
若木町の原爆模擬爆弾投下地点も通ったが、話を聞かなければ分からないところだ。
須磨区は、空襲による全焼家屋が1万3639棟、死者912人と神戸市史には記録されている。空襲で焼けた木や空襲のあとを物語る慰霊碑などもあり、二度と戦争を引き起こさないためのモニュメントとして残してほしい所が多い。