新社会兵庫ナウ

5・3兵庫憲法集会 メインスピーチ
畠山澄子さん(ピースボート共同代表)のお話2(要旨)

2025/06/25
5・3兵庫憲法集会でスピーチを行った畠山澄子さん=5月3日、神戸・みなとのもり公園

ピースボートから見た戦争と平和

【前号からのつづき】 被爆者と一緒に世界一周の旅をしていた韓国の大学生が言ってくれたことがある。「被爆者の話を聞いてほんとうに心が痛む。こういう経験をしなければならなかった人がいるということは許せないし、自分も核兵器に反対だ。でも一方で、世界で日本の被爆者の人たちが「平和の大使」、「平和の使者」みたいな感じで受け止められるのを見るとちょっと胸がざわつく。自分のおじいちゃんやおばあちゃんたちがかつて日本軍のやったことで苦しんだということがなかったことになるのか」と。
 その時に私は、同じ21世紀を生きる東アジアの人間として共に平和な未来をつくらなければならない、一緒にどういう歴史をつくっていくのかを考えなくてはいけないなと思った。
 でも、かといって私は、被爆者たちの経験したことが軽視されるべきだとは思わないし、だからこそ、誰にでも起きてはいけない非人道的なこととして訴えていかなければ、と思うようになった。
犠牲の上に成り立つ世界を変える
 もうひとつ、私が世界を回りながら気づいたことは、世界に被爆者がたくさんいるということだった。それまで、私には運動の経験がなく、被爆者は日本にしかいないと思っていた。しかし、タヒチに行ったらフランスの核実験で被害を受けたという人がいた。オーストラリアに行ったらイギリスのウラン鉱で別の核実験の被害を受けたという人がいた。アメリカという、核兵器を持って核兵器で守られていると思っていた国でも核実験の風下の住民として被曝した人もいたり、ウランの採掘で被曝する人もいる。
 私がやっと気づいたのは、核兵器がある世界でいいということは、命を選別して、大きな安全保障のためになら、多くの人たちを守るためになら、少数の人たちの権利や幸せや当たり前に生きるということを蔑ろにしていいという価値観を持つことなんだということだった。それは、核兵器だけでなく戦争を良しとすること、戦争が必要だということは、そのしわ寄せを脆弱な立場の人に押しつけることと同じだと思った。
 私はそのことを知ってから、そういう犠牲のシステムの上に成り立つ世界を変えたいと思うようになった。
勇気をくれた核兵器禁止条約の成立
 ただ、そう言うのは簡単だが、実際にこういう平和に関わる運動をしていると、むしろ、世界の動きはがっかりすることばかりだ。
 それでも私は昨今起きたことに勇気をもらっている。ひとつは、2017年に核兵器禁止条約ができたことだ。私は被爆者の人たちと一緒に交渉会議があるニューヨークにいた。核兵器禁止条約が採択された瞬間をとてもよく覚えている。
 それまでいろいろな運動にかかわりながら、核兵器とか大きな問題は、大国が動かないと変わらない、市民にできることはすごく限られていると思っていた。でも、あの核兵器禁止条約が示したのは、国連のような一国一票制度のもとでは過半数の国が核兵器は要らないと言えば、国際条約をきちんとつくることができるということだった。それまで核兵器を持っている大きな国ばかり見ていたが、新しい規範を持った国際法など、国際的な規範で作っていける。小国が集まったらできるし、市民ができることだと気づいた。
 あの時、リーダーシップをとっていた国はたくさんあった。議長を務めたコスタリカやメキシコやそういう国の外交官と話していると、驚くほど多くの人が、自分の原点は被爆者の声を聴いたことであり。平和運動のために一生懸命署名を集めた人が国連でその署名を手渡す姿を見たことだったと言う。
 その時に、私はやはり草の根の運動は意味があると思った。すぐ明日に成果が出るわけではないかもしれないし、もしかしたら自分の生きているうちに成果が見えるわけではないかもしれない。それでも、今日私たちがやっていることが未来の誰かにつながると思ってやり続けることが大事だと思うに至った。
日本被団協のノーベル平和賞受賞からも勇気
 もうひとつは、昨年の日本被団協のノーベル平和賞の受賞だ。一方でちょっと遅かったんじゃないかという気持ちもあるが、なぜなら、2008年に一緒に世界一周をした100人の被爆者の方がいったい何人残っているんだろうと思うほどにこの10何年間、私は訃報を聞き続けてきた。被団協がノーベル平和賞を受賞したということを知ったら喜んでくれただろうと思う人の顔が次々と浮かぶ。その意味でもやっとの受賞だったが、68年間運動を続けてきた日本被団協の功績がついにノーベル平和賞受賞という形で世界に認められたということは大いに称えられることだ。
 それからもうひとつ。日本被団協がずっと訴え続けてきた、そして、ノーベル平和賞受賞スピーチで、田中熙巳さんが原稿を逸脱してまで強調したことだが、「(戦争被害)受任論」というものには抗っていきたい。戦争被害への国家補償がなされていないという着眼点がもっと広がればいいと思っている。
 それは戦争が起きたとき、国民が、その地に住んでいる人が、犠牲を無制限に蒙るということを許していては国家は戦争につき進んでしまうということなのだと思う。だから、戦争が起きたらこんなにも被害が起きるんだ、それを国家が責任を取れるのかということをきちんとつきつけていくことは本当に大事なことなんだと思う。
つながることが明日を生きる希望
 では、これからどうしていこうかと、私は日々考える。
 去年、中学生25人くらいが、夏休みにピースボートに2週間乗ってくれたことがあった。その時に同じ船に乗っていた早稲田大学でアラブ文学を教えている岡真理さんという、ガザのことをたくさん発信している方が、中学生にお話をした時に、「レスポンシビリティ」という言葉を知っているかと問いかけた。レスポンシビリティを「責任」という意味の英語だと習っているだろうが、たしかにそれは正しいが、原語をたどっていくと、ラテン語の「レスポンスス」には「応答する」という意味が入っているんだと教えていた。だから、レスポンシビリティはたんなる責任ではなく、「応答する責任」だと思うと中学生に言っていた。「だから、皆さんも世界で起きている、世界からのSOSに対してどういうふうに応答していくのか考えてほしい」と、岡さんは話を締めくくった。
 いま、この世界でどれだけの人が亡くなっているのか。これだけ地球が悲鳴をあげている、その地球に生きる人間として、どうやってガザの人たちのSOSに応えていけるのか、ウクライナの人たちの叫びに応えていけるのか、考えていかなくていけないと思う。
 ピースボートでは、この一連のガザへの攻撃が始まってから何度か「ストップ・ガザ・キリング」という大きなバナーを船体に掲げて各地の港でアピール運動をしてきた。
 それと同時に賛同金を集めて少しでも野菜を届けるキャンペーンを展開してきた。それを見たガザの人が言ったことは、「このキャンペーンはたんに野菜だけではなく、希望を届けてくれているんだよ。こういう戦闘のさ中にいるときに、一番辛いのは、世界中から見放されていると思うことなんだ。だから意味がないと思わないで、声を上げ続けてほしい」ということだった。それは、ウクライナの人たちにとっても同じだと、ピースボートに乗っているウクライナ出身の船長さんからも言われた。
 もちろん戦争になったら、医療品も必要だし、食料も必要だ。だけど、世界の人たちとつながっている、世界の人たちは自分たちを見捨てていないんだという、そのエールが、明日を生きる一番の希望になるんだと言われた。
 船で旅をしていると、世界はこの空でつながっている、海でつながっていると本当に思う。夜、満天の星空を見ながら、ガザの人たちやウクライナの人たちはどういう気分で空を眺めているんだろうかとよく思う。
 先々月、アメリカの学生が広島と東京で兵器に関するフィールドワークをしたとき、最後の感想として、「たくさんの被爆者の人たちから『この話のぜひ他の人に伝えて』と言われたことが非常に印象的だった」と言われた。この話はよく聞く話だが、その学生は続けて「そういわれた時、自分も歴史の一部だということにものすごく強く気がついた。いま、自分がどういう行動をするかで、核兵器の歴史に関する、あるいは、戦争が起きるか起きないかの歴史も、ちょっとずつ変わるかもしれないと思えた」と言っていた。
 だから、私たちも戦争に抗って、憲法が大事だと言い続ける。平和は壊してはいけないし、積極的に守っていかなくてはならない。
 政府がもしこれに逆行するような動きを見せたときに、市民の側からこれが平和主義なんだということを見せないといけないと思う。
 みなさん。今日も、そして明日からもがんばりましょう。
【終わり】