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5・3兵庫憲法集会 メインスピーチ
畠山澄子さん(ピースボート共同代表)のお話(要旨)
2025/06/11
分かりやすい言葉で説得力のあるスピーチをした畠山澄子さん=5月3日、神戸市中央区
今年の「5・3兵庫憲法集会」でメインスピーカーとして登場した畠山澄子さん(ピースボート共同代表)のスピーチ要旨を、ご本人の了解を得て2回にわった掲載します。要約を含めて文章、見出しの責任はすべて編集部にあります。 【編集部】
ピースボートから見た戦争と平和
過
去の戦争を見つめ、未来の平和をつくる
今週、ストックホルムにある国際平和研究所が世界の軍事費を発表した。2024年の世界の軍事費は2兆7180億ドル、日本円では389兆円。1988年の統計開始以来、最大の金額で、前年から9・4%上がっている。日本はどうか。前年から21%も防衛費が上がった。平和国家、平和主義を掲げている日本がいま世界で10番目に多い防衛費、つまり軍事費を使っている。
こうした軍事費が何に使われているかというと、もちろん、いわゆる防衛費、国を守るための予防的な安全保障に使っているが、でも一方で確実に軍事費はこの瞬間も人を殺すために使われている。ガザではこの2年間弱で死者が5万人を超えた。私のガザの友人も2021年のイスラエルによる爆撃で家が破壊された。その時、私たちはカンパを集め、家の再建にと彼に送ったが、その当時、彼が言ったことは「自分も難民としてガザで生まれ育ったが、せめて子どもには人生がフェアであるように。それだけが私の親としての願いなのだ」と。4年経った今、彼が言ったように、ガザの子どもたちにとって人生がフェアだと言えるのか、毎日考えているが、私の答えは否だ。
何が、私とガザにいる人たちを分かつのだろうかとよく考えるが、今のところ、私に答えはひとつしか見つかっていない。それは、私が日本で生まれ、彼はガザで生まれた、それだけだ。それしか理由が見つからないのなら、それは不条理だと私は思っている。
しかも、いま日本が平和的国家として解決していこうとするのではなく、軍事費をもっと上げようとする姿勢を見せているのが、残念でならない。ウクライナも戦争が終わらない。死者が5万人近くなっている。
2年前、ピースボートで航行中に、同じ船に乗っているウクライナ人のクルーから兄が戦死したと言われた。平和のためとはいえ一方で世界一周の旅を楽しんでいるのに、一方で同僚の家族が戦地で死んでいる。これが今の世界だと思うとなんと耐えられない世界なんだろうと思う。どこに希望を見出していけばいいのか、はっきり言ってわからないと思うことが多くある。
私はいま、ピースボートの共同代表をしているが、ピースボートは3か月に1度、大きな船をチャーターして毎回1700人くらいの人が3カ月半の世界一周の旅を年3回する。先日も4月24日に新しい世界一周の旅が神戸港を出たばかり。
ピースボートは、1983年から顔の見える国際交流をテーマに地球一周の船旅を始めた。そのなかで見えてくる戦争と平和というものがいくつもあるが、ピースボートの始まりは、過去の戦争を見つめ、未来の平和を創るというスローガンのもとだった。1982年、日本では教科書問題が起きた。これまでは高校の歴史の教科書では、日中戦争で日本が中国に侵略したと書かれていたが、「中国に進出した」とより中立的な記載になるかもしれないということで、周辺国が反発し、抗議し、ある種の国際問題になった。その当時、学生たちが、自分たちの目で歴史を見ることが大切だ、あるいは、もし近くの国の人たちが怒っているのであればなぜ怒っているのか、自分たちで聞きにいこうと始めたのが地球一周の船旅だ。
だから、最初の頃はよくアジアの国を訪れた。1983年の船旅は上海を訪れ、そこから陸路で南京に行く旅だった。その当時、南京は今と違って何もない場所だった。現地の人が、行った人に「もしここで何が起きたのかが信じられないのならその辺の土を掘りかえしてごらん」と言ったそうだ。掘りかえしたら人の骨が出てくるそうだ。
その時、南京のツアーに参加した女性のひとりがのちに事務局に手紙を寄せてくれている。手紙には「私はおそらく平和運動を仕事にはしないで、ただふつうに生きていくと思う。でも南京で触れた戦争の痛みとか、戦争が起きたら何が起きてしまうのかということを一生忘れないで生きていくと思う」とあった。戦争というものを抽象的なものにしないで、何が起きるか、きちんとみつめるということが私たちにとってすごく大切だと思う。
戦争で生まれる加害者と被害者の苦しみ
一方で、私たちが戦争の歴史と向き合うなかで感じてきたのは、加害者は、ときには被害者なんだということだ。南京の旅に出た時、戦争で現地の人を殺したという旧日本軍の兵士だった人がぜひ私も行って謝罪をしたいと乗船計画を立ててくれた。しかし、その方は港が近づくにつれて何も言えなくなってしまい、最終的には下船することができなかった。それほど、過去に自分がしたことと向き合うということに恐れがあったのだと思う。戦争という大きな構図の中に組み込まれてしまうと、被害者であっても、加害者であっても大きな苦しみを抱えるということを知った時に、私は改めて、戦争というものは起こしてはいけないと強く思うようになった。
それ以外にも世界の多くの戦争被害者の声を聞いてきた。今年の4月30日はベトナム戦争終結から50年だった。ピースボートは何度もベトナムを訪れているが、ベトナムでは、50年経った今でも、枯葉剤の被害に苦しんでいる人がいる。
ピースボートはカンボジアとも関わりを持っていて、カンボジアでは地雷を撤去するというプロジェクトを30年にもわたって続けている。今や世界ではカンボジアの内戦のことは過去の出来事だ。でもあの当時にカンボジアの地に埋められた400万個の地雷はいまだに撤去され切っていない。今でも遊びに行った子どもたちが、数は減ったが、足が無くなって帰ってくる、手が無くなって帰ってくる。畑を耕そうと思い、耕すと地雷が埋まっている。そういう被害が続いている。
カンボジアの人たちと地雷撤去のプロジェクトを一緒にやりながら思うのは、戦闘が終結しても戦争の傷はほんとうに長く残り続けるということだ。だから、今、世界の緊張が高まっている時に、すごく安易に、場合によっては軍事力、場合によっては戦争もという発言があるが、一度戦争が起きてしまうと、その被害は何十年にもわたって続くということを世界の人から教わってきた。
私自身の平和運動への関わりのきっかけ
つぎに、私自身がなぜピースボートに、あるいは核兵器廃絶、核軍縮の運動に関わっているのか、なぜ私がこの分野に関わるようになったのか、そのかかわりの中で何を見てきたのかを少しお話しさせていただく。
私が最初にピースボートに乗ったのは、19歳の時、高校を卒業してすぐだった。最近、テレビにも出るようになって「昔から平和のことに熱心だったんでしょうね」と言われるが、そうではない。最初にピースボートに乗ったのは、「通訳ボランティア、無料で世界一周できる」という、この文言に魅かれた。当時、ちょっとだけ留学して英語ができたので、経験もないのに通訳ボランティアをすれば、世界一周できると思って乗った。2008年のことだった。そのとき、ピースボートは25周年で、広島、長崎から100人の被爆者の方が招待されていた。ピースボートで世界一周しながら世界各地で被爆証言を届けようというのがこのプロジェクトだった。
私は埼玉で生まれ育ったが、それまで被爆者に会ったことがなかった。ピースボートに乗って初めて被爆者に会い、被爆証言を聞いた。
通訳だから、きちんとその言葉を受け止めて、英語で世界の人たちに伝えるという責任を負った。その時に聞いた被爆証言は、私が思っていたものとは全然違っていた。それまでの私は、教科書で習ったイメージで、原爆投下と言われれば、イメージするものはきのこ雲と原爆ドームだった。
でも6か月間、一緒に旅して、被爆者の人たちが一生懸命伝えてくれたのは、こんな話だった。自分の体がウジ虫まみれになって、それを何度も何度も母親にピンセットで取ってもらって、どれだけ申し訳なくて、どれだけ恥ずかしかったか。被爆者と言われて育ったけれども自分は小さすぎて原爆のことは記憶になかった。だけどいじめられ、「アンタに一生子どもは産めない」と言われたから、私は、結婚することも、子どもを産むことも最初から選ばなかった―という話で、今でも強く覚えている。何度も何度もガンになって、なぜこんなに家族に迷惑をかけなきゃいけないのだろう、と涙を流した被爆者のこともよく覚えている。やはり、きのこ雲とか原爆ドームではとらえ切れない、きのこ雲の下で起きたことがあるのだと感じるようになった。
その旅の終わりに、今はもう亡くなってしまった被爆者が私に言った。「自分は長崎でがんばっている。その理由は長崎を最後の被爆地にしたいからだ。二度と核兵器が使われることがあってはいけないと思うから頑張っているが、けれども仮に100年、核兵器が使われないことを自分の目標にしても2045年には自分は生きていないと思うから、あなたがたのような人が頑張ってほしいと思っている」という話だった。
その時まで、その時まで、いい話を聞いたなと思いながら地球一周の旅を終えようとしていたが、その被爆者の方にそう言われて、カバン持ちでもなんでもいい、核兵器のない世界、戦争のない世界のために、何か私にできることがあればがんばってみたいなと思うようになって、今に至っている。
15年にわたって被爆者の人たちと世界一周の旅をしてきて、多くの戦争の被害者とつながってきた。そのなかで、教わったことがいろいろある。
そのひとつは、私たちが戦争を語る時に被害だけでなく侵略など加害のこともセットで話さなければ国際的な説得力を持たないということだ。
【次号へつづく】
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ピースボートから見た戦争と平和
過去の戦争を見つめ、未来の平和をつくる今週、ストックホルムにある国際平和研究所が世界の軍事費を発表した。2024年の世界の軍事費は2兆7180億ドル、日本円では389兆円。1988年の統計開始以来、最大の金額で、前年から9・4%上がっている。日本はどうか。前年から21%も防衛費が上がった。平和国家、平和主義を掲げている日本がいま世界で10番目に多い防衛費、つまり軍事費を使っている。
こうした軍事費が何に使われているかというと、もちろん、いわゆる防衛費、国を守るための予防的な安全保障に使っているが、でも一方で確実に軍事費はこの瞬間も人を殺すために使われている。ガザではこの2年間弱で死者が5万人を超えた。私のガザの友人も2021年のイスラエルによる爆撃で家が破壊された。その時、私たちはカンパを集め、家の再建にと彼に送ったが、その当時、彼が言ったことは「自分も難民としてガザで生まれ育ったが、せめて子どもには人生がフェアであるように。それだけが私の親としての願いなのだ」と。4年経った今、彼が言ったように、ガザの子どもたちにとって人生がフェアだと言えるのか、毎日考えているが、私の答えは否だ。
何が、私とガザにいる人たちを分かつのだろうかとよく考えるが、今のところ、私に答えはひとつしか見つかっていない。それは、私が日本で生まれ、彼はガザで生まれた、それだけだ。それしか理由が見つからないのなら、それは不条理だと私は思っている。
しかも、いま日本が平和的国家として解決していこうとするのではなく、軍事費をもっと上げようとする姿勢を見せているのが、残念でならない。ウクライナも戦争が終わらない。死者が5万人近くなっている。
2年前、ピースボートで航行中に、同じ船に乗っているウクライナ人のクルーから兄が戦死したと言われた。平和のためとはいえ一方で世界一周の旅を楽しんでいるのに、一方で同僚の家族が戦地で死んでいる。これが今の世界だと思うとなんと耐えられない世界なんだろうと思う。どこに希望を見出していけばいいのか、はっきり言ってわからないと思うことが多くある。
私はいま、ピースボートの共同代表をしているが、ピースボートは3か月に1度、大きな船をチャーターして毎回1700人くらいの人が3カ月半の世界一周の旅を年3回する。先日も4月24日に新しい世界一周の旅が神戸港を出たばかり。
ピースボートは、1983年から顔の見える国際交流をテーマに地球一周の船旅を始めた。そのなかで見えてくる戦争と平和というものがいくつもあるが、ピースボートの始まりは、過去の戦争を見つめ、未来の平和を創るというスローガンのもとだった。1982年、日本では教科書問題が起きた。これまでは高校の歴史の教科書では、日中戦争で日本が中国に侵略したと書かれていたが、「中国に進出した」とより中立的な記載になるかもしれないということで、周辺国が反発し、抗議し、ある種の国際問題になった。その当時、学生たちが、自分たちの目で歴史を見ることが大切だ、あるいは、もし近くの国の人たちが怒っているのであればなぜ怒っているのか、自分たちで聞きにいこうと始めたのが地球一周の船旅だ。
だから、最初の頃はよくアジアの国を訪れた。1983年の船旅は上海を訪れ、そこから陸路で南京に行く旅だった。その当時、南京は今と違って何もない場所だった。現地の人が、行った人に「もしここで何が起きたのかが信じられないのならその辺の土を掘りかえしてごらん」と言ったそうだ。掘りかえしたら人の骨が出てくるそうだ。
その時、南京のツアーに参加した女性のひとりがのちに事務局に手紙を寄せてくれている。手紙には「私はおそらく平和運動を仕事にはしないで、ただふつうに生きていくと思う。でも南京で触れた戦争の痛みとか、戦争が起きたら何が起きてしまうのかということを一生忘れないで生きていくと思う」とあった。戦争というものを抽象的なものにしないで、何が起きるか、きちんとみつめるということが私たちにとってすごく大切だと思う。
戦争で生まれる加害者と被害者の苦しみ
一方で、私たちが戦争の歴史と向き合うなかで感じてきたのは、加害者は、ときには被害者なんだということだ。南京の旅に出た時、戦争で現地の人を殺したという旧日本軍の兵士だった人がぜひ私も行って謝罪をしたいと乗船計画を立ててくれた。しかし、その方は港が近づくにつれて何も言えなくなってしまい、最終的には下船することができなかった。それほど、過去に自分がしたことと向き合うということに恐れがあったのだと思う。戦争という大きな構図の中に組み込まれてしまうと、被害者であっても、加害者であっても大きな苦しみを抱えるということを知った時に、私は改めて、戦争というものは起こしてはいけないと強く思うようになった。
それ以外にも世界の多くの戦争被害者の声を聞いてきた。今年の4月30日はベトナム戦争終結から50年だった。ピースボートは何度もベトナムを訪れているが、ベトナムでは、50年経った今でも、枯葉剤の被害に苦しんでいる人がいる。
ピースボートはカンボジアとも関わりを持っていて、カンボジアでは地雷を撤去するというプロジェクトを30年にもわたって続けている。今や世界ではカンボジアの内戦のことは過去の出来事だ。でもあの当時にカンボジアの地に埋められた400万個の地雷はいまだに撤去され切っていない。今でも遊びに行った子どもたちが、数は減ったが、足が無くなって帰ってくる、手が無くなって帰ってくる。畑を耕そうと思い、耕すと地雷が埋まっている。そういう被害が続いている。
カンボジアの人たちと地雷撤去のプロジェクトを一緒にやりながら思うのは、戦闘が終結しても戦争の傷はほんとうに長く残り続けるということだ。だから、今、世界の緊張が高まっている時に、すごく安易に、場合によっては軍事力、場合によっては戦争もという発言があるが、一度戦争が起きてしまうと、その被害は何十年にもわたって続くということを世界の人から教わってきた。
私自身の平和運動への関わりのきっかけ
つぎに、私自身がなぜピースボートに、あるいは核兵器廃絶、核軍縮の運動に関わっているのか、なぜ私がこの分野に関わるようになったのか、そのかかわりの中で何を見てきたのかを少しお話しさせていただく。
私が最初にピースボートに乗ったのは、19歳の時、高校を卒業してすぐだった。最近、テレビにも出るようになって「昔から平和のことに熱心だったんでしょうね」と言われるが、そうではない。最初にピースボートに乗ったのは、「通訳ボランティア、無料で世界一周できる」という、この文言に魅かれた。当時、ちょっとだけ留学して英語ができたので、経験もないのに通訳ボランティアをすれば、世界一周できると思って乗った。2008年のことだった。そのとき、ピースボートは25周年で、広島、長崎から100人の被爆者の方が招待されていた。ピースボートで世界一周しながら世界各地で被爆証言を届けようというのがこのプロジェクトだった。
私は埼玉で生まれ育ったが、それまで被爆者に会ったことがなかった。ピースボートに乗って初めて被爆者に会い、被爆証言を聞いた。
通訳だから、きちんとその言葉を受け止めて、英語で世界の人たちに伝えるという責任を負った。その時に聞いた被爆証言は、私が思っていたものとは全然違っていた。それまでの私は、教科書で習ったイメージで、原爆投下と言われれば、イメージするものはきのこ雲と原爆ドームだった。
でも6か月間、一緒に旅して、被爆者の人たちが一生懸命伝えてくれたのは、こんな話だった。自分の体がウジ虫まみれになって、それを何度も何度も母親にピンセットで取ってもらって、どれだけ申し訳なくて、どれだけ恥ずかしかったか。被爆者と言われて育ったけれども自分は小さすぎて原爆のことは記憶になかった。だけどいじめられ、「アンタに一生子どもは産めない」と言われたから、私は、結婚することも、子どもを産むことも最初から選ばなかった―という話で、今でも強く覚えている。何度も何度もガンになって、なぜこんなに家族に迷惑をかけなきゃいけないのだろう、と涙を流した被爆者のこともよく覚えている。やはり、きのこ雲とか原爆ドームではとらえ切れない、きのこ雲の下で起きたことがあるのだと感じるようになった。
その旅の終わりに、今はもう亡くなってしまった被爆者が私に言った。「自分は長崎でがんばっている。その理由は長崎を最後の被爆地にしたいからだ。二度と核兵器が使われることがあってはいけないと思うから頑張っているが、けれども仮に100年、核兵器が使われないことを自分の目標にしても2045年には自分は生きていないと思うから、あなたがたのような人が頑張ってほしいと思っている」という話だった。
その時まで、その時まで、いい話を聞いたなと思いながら地球一周の旅を終えようとしていたが、その被爆者の方にそう言われて、カバン持ちでもなんでもいい、核兵器のない世界、戦争のない世界のために、何か私にできることがあればがんばってみたいなと思うようになって、今に至っている。
15年にわたって被爆者の人たちと世界一周の旅をしてきて、多くの戦争の被害者とつながってきた。そのなかで、教わったことがいろいろある。
そのひとつは、私たちが戦争を語る時に被害だけでなく侵略など加害のこともセットで話さなければ国際的な説得力を持たないということだ。