新社会兵庫ナウ

若者の広場(2025年4月23日号)
石川一雄さんを想う

2025/04/23
 僕は高校野球が好きで、センバツ大会もあったので、そんな趣味の話を書くのもよいと言われたが、偶然にもこのタイミングで執筆を依頼されたので、先日亡くなられた石川一雄さんのことについて書こうと思う。
 僕の通っていた小学校の校区には被差別部落があり、社会見学なのか何なのか、地元では文化センターと呼ばれている、いわゆる隣保館へ授業の一環として行くこともあった。当時、石川さんはまだ獄中にいて、会館の壁の張り紙ではバカボンのパパやドラえもんが、「石川さんを返せ」と叫んでいた。
 小学校では月曜日の1時間目だったと思う、道徳の授業が「同和道徳」という名前であり、『にんげん』という教材を用いて様々なことを学んだ。その内容の何が素晴らしいかというと、部落差別だけでなく、女性、在日朝鮮人、いじめなどあらゆる人権問題について言及していたことである。この教育が今の僕の人間性を構築している。
 その後も何かと部落解放運動とは縁があり、大学を卒業して最初の職場は、上田卓三さんの地元であり、大賀理論で有名な大賀正行さん、弟の山中多美男さんとも顔を合わせる機会があった。
 この新聞を読んでいる方々は僕よりも詳しい人ばかりだろうから、狭山事件についての説明は控えるが、この件について僕がいつも思いを馳せるのは、自分が石川さんの立場だったら、どのような人生だったかということである。24歳のとき無実の罪で逮捕され、強引な取り調べをされ、翌年に死刑判決、10年後に無期懲役、55歳で仮釈放、若い時期の30年間を獄中で過ごしたのである。そして本人が「見えない手錠」と述べ、親の墓参りにも行けないまま86歳で死去した。そのような人生が許されてよいはずがない。
 石川さんとは二度お会いしたことがある。一度目は広い会場で講演を聴いただけだが、二度目は小さい会場で交流会にまで参加させていただいた。彼の話を聞くたびに感じるのは、一つに国家権力への怒りであり闘志である。それが生きる原動力だったのだと思う。もう一つは文学的な感性の豊かさである。逮捕時は読み書きもままならなかったらしいが、獄中で文字を学び、生涯にわたって数多くの歌を詠んでいる。
 もう一つ印象的だったのは講演会での発言。彼は「この事件があって良かった」と言った。差別の実態について知ることができたこと、こんなにも多くの人が支援してくれる縁ができたこと。そんな言葉を誰が語ることができるだろうか。
 僕は狭山事件について、一般的な..罪事件ではなく差別事件なのだということを強調したい。有力な説として警察権力が相次ぐ失態の面子を保つために、部落民である石川さんを逮捕したと言われている。差別は絶えず秒ごとに社会に存在しているのである。決して狭山事件は終わっていない。石川さんの存命中に無罪を勝ち取れなかったことは無念で仕方ないが、西から東に無実を叫び続けなくてはならない。
(西村結生)