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寄稿 米岡史之さんを偲ぶ
体は小さいが、大きい米岡史之の名 今村 稔
2025/02/12
新社会党長田総支部所属で、熟年者ユニオンの会長を結成時から長く務めた米岡史之さんが1月1日、急逝した。91歳だった。
米岡さんの逝去を悼み、故人の生前を偲ぶ文が今村稔さんから寄せられた。【編集部】
◇
新年早々、私たちの手から人材の宝が奪われた。米岡史之さんの逝去である。
1933年生まれの享年91歳であった。敗戦直後、大連からの引揚げであったので、私より3つ年上であったが、学年齢では2 年上であった。6・3制の新制中学の最初の卒業生であった。
その後、三菱重工の養成工となり、定年まで43、4年を過ごした。わが国の独占資本の中核であり、労働運動でも同盟系運動の牙城であった職場で、資本に魂を売ることなく、抵抗を続けてきた。三菱資本は、米岡さんを吹けば飛ぶような存在と侮ったであろうが、この獅子身中の虫は喰い離れなかった。三菱資本が睨みをきかす中で、米岡さんと共にたたかおうとする労働者は多くはなかったが、密かに米岡さんと語る労働者は少なくなかったと聞く。
先頭に立って叱咤する姿などおよそ似合う人ではなかったが、震災後と重なった定年退職後は、神戸で熟年者ユニオンを起ち上げ、その会長に就き、10年間その任を務めた。
熟年者ユニオンは今日まで、さまざまな街頭宣伝活動、毎月のサンドイッチマンデモ、神戸市に対する敬老パスを守る署名活動、介護保険制度を改善・前進させる共闘組織の取り組み、関西電力に対する原発反対の抗議行動などを重ね、大衆運動が年を追って後退気味になる中で気を吐いてきたが、その感じは、地味さといい、粘り強さといい、そのまま米岡さんの人格化と言えるものであった。
地味と粘りが売物の人は、エピソードが少ないというのが相場であるが、米岡さんは逆に、背負いきれないほどであった。まず第1に指を折ることは、サボッたり、手抜きをしたりしない人であったということである。参加すべき会議や行動に姿を見せないことは、病気などでないかぎり絶無であった。住友ゴムの仲間が退職後も会社に対するたたかいを数年も止めず続けた時、米岡さんは毎月の行動に欠かすことなく、それも自転車で参加していた。
第2に指を折ることは、ほとんどの場合、それが三宮であろうと、明石であろうと、西宮であろうと、住んでいた長田の自宅(長者町というのも皮肉なおかしみがあったが)から自転車で来ることであった。バイクを使うことも滅多にないことだった。当初、熟年者ユニオンは生田川沿いのところに事務所を持っていたが、そこへの出勤も自転車だった。
第3に指を折ることは、どんな手作業でも、できることは自分でやろうとする心構えの持ち主であった、ということである。兵庫土建の組合員にもなり、さまざまな修理作業など大工さんそこのけの自力でやっていたという。
ただ、自宅のブロック塀は彼の背丈までしか積まれていなかったという、真偽のほどは定かでない笑話が残されていた。
名城の石垣の間に、それなくしては石垣の強さはないという小石があるといわれる。米岡さんは、目立たない、小さい、しかしそれなしには石垣の強さはあり得なかった小石であった。
運動を大きく強くしようと欲する志を持つものならば、決して忘れてはならない名は、米岡史之である。
(元熟年者ユニオン会長)
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米岡さんの逝去を悼み、故人の生前を偲ぶ文が今村稔さんから寄せられた。【編集部】
1933年生まれの享年91歳であった。敗戦直後、大連からの引揚げであったので、私より3つ年上であったが、学年齢では2 年上であった。6・3制の新制中学の最初の卒業生であった。
その後、三菱重工の養成工となり、定年まで43、4年を過ごした。わが国の独占資本の中核であり、労働運動でも同盟系運動の牙城であった職場で、資本に魂を売ることなく、抵抗を続けてきた。三菱資本は、米岡さんを吹けば飛ぶような存在と侮ったであろうが、この獅子身中の虫は喰い離れなかった。三菱資本が睨みをきかす中で、米岡さんと共にたたかおうとする労働者は多くはなかったが、密かに米岡さんと語る労働者は少なくなかったと聞く。
先頭に立って叱咤する姿などおよそ似合う人ではなかったが、震災後と重なった定年退職後は、神戸で熟年者ユニオンを起ち上げ、その会長に就き、10年間その任を務めた。
熟年者ユニオンは今日まで、さまざまな街頭宣伝活動、毎月のサンドイッチマンデモ、神戸市に対する敬老パスを守る署名活動、介護保険制度を改善・前進させる共闘組織の取り組み、関西電力に対する原発反対の抗議行動などを重ね、大衆運動が年を追って後退気味になる中で気を吐いてきたが、その感じは、地味さといい、粘り強さといい、そのまま米岡さんの人格化と言えるものであった。
地味と粘りが売物の人は、エピソードが少ないというのが相場であるが、米岡さんは逆に、背負いきれないほどであった。まず第1に指を折ることは、サボッたり、手抜きをしたりしない人であったということである。参加すべき会議や行動に姿を見せないことは、病気などでないかぎり絶無であった。住友ゴムの仲間が退職後も会社に対するたたかいを数年も止めず続けた時、米岡さんは毎月の行動に欠かすことなく、それも自転車で参加していた。
第2に指を折ることは、ほとんどの場合、それが三宮であろうと、明石であろうと、西宮であろうと、住んでいた長田の自宅(長者町というのも皮肉なおかしみがあったが)から自転車で来ることであった。バイクを使うことも滅多にないことだった。当初、熟年者ユニオンは生田川沿いのところに事務所を持っていたが、そこへの出勤も自転車だった。
第3に指を折ることは、どんな手作業でも、できることは自分でやろうとする心構えの持ち主であった、ということである。兵庫土建の組合員にもなり、さまざまな修理作業など大工さんそこのけの自力でやっていたという。
ただ、自宅のブロック塀は彼の背丈までしか積まれていなかったという、真偽のほどは定かでない笑話が残されていた。
名城の石垣の間に、それなくしては石垣の強さはないという小石があるといわれる。米岡さんは、目立たない、小さい、しかしそれなしには石垣の強さはあり得なかった小石であった。
運動を大きく強くしようと欲する志を持つものならば、決して忘れてはならない名は、米岡史之である。