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寄稿 60年安保闘争から60年 60年安保闘争を学ぶことは労働者の人間的な生命力を再生させること
今村 稔
2020/06/30
国会議事堂前を埋め尽くすデモの大波
今年は、歴史的な高揚をみせた1960年の日米安保反対闘争から節目の60年の年である。当時、東京で全学連中執の1人として学生運動の真っ只中にいた今村稔さん(前社会主義協会代表、「憲法を生かす会・灘」共同代表)から60年安保闘争をめぐる思いを寄稿していただいた。【編集部】
よく知られているように、暦の甲、乙、丙……の十干と、子、丑、寅……の十二支の組み合わせが一巡する(10と12の最小公倍数)のが60年であり、還暦といわれ人生の節目とされている。近頃では定年もずいぶん複雑になっているが、なお60歳定年が主流であろう。
わが国の政治史に大きなものを印した1960年の日米安保条約改定反対闘争も、60年を迎えた。正確に言えば、安保闘争は59年4月から60年6月18日までのたたかいであったが、普通では、何万、何十万というデモが連日国会をとりまいた5月20日から6月18日の間のたたかいだと思われている。国会周辺や都心のみならず全国津々浦々に共闘組織がつくられ、デモがくりひろげられたことは言うまでもない。
この間に、6月4日の労働者の生産点ストライキ、10日の羽田・ハガチー闘争(アイゼンハウア米大統領の訪日先遣役だったハガチーを羽田からアメリカ大使館へとヘリコプターで移動なからしめた)などが続いたが、なんといっても、象徴的な1日は15日であった。当時、学生だった私は正午頃、手にプラカードを持った100人ほどの学友と大学の門を出て電車で国会に向かった。国会では開設されて間もない地下鉄・国会議事堂駅がひっきりなしに労働者や学生や市民を吐き出していた。周辺は切れ目のないデモと「陳情」の人であったが、4時ごろに新劇人部隊に右翼のトラックが突入するのを見た。抵抗、反撃された右翼数人は、機動隊の保護を求めるように国会構内に逃げ込んだ。薄暮と緊張感の増す中で、勤務明けの労働者の数もぞくぞくと増え、「安保反対!」「岸を倒せ!」の掛け声は、国会を取り巻き、あるいは銀座方面、新宿方面へと流れていた。
9時頃、デモ隊に、死傷者が出たらしいという声が飛び交うようになった。国会通用門あたりで再三繰り返された機動隊と学生の衝突によるものらしい。殺気が漂う感じになる。国会の前庭は機動隊の大部隊でいっぱいだ、自民党の本部には暴力団も集結しているという噂もある、と新聞記者が教えてくれる。日が変わって16日午前1時頃、国会正面・チャペルセンター前に集結していたデモ隊に向けて催涙弾が撃ち込まれ、それを合図に警棒を振りかざした機動隊がデモ隊に襲いかかり、突入してくる。万余のデモ隊は、有楽町駅へ、靖国神社へと難を避けて退いていく。ここの場面については、ラジオ関東の有名な実況放送が残っている。殺された人が、私も知っていた樺美智子さんだったと知ったのは16日早朝であったと知ったのは16日早朝であった。
16日のデモは、一挙に虐殺抗議一色に変わった。岸政権は、アイク訪日を断念した。かつてなかった外交の汚点となった。18日は自然成立までの最後の日であったが、国会周辺では国立劇場建設予定地に集結した人たちは30万を超えた。デモは大きな道幅いっぱいに拡がる「フランスデモ」となり、銀座に、新宿に、上野にと放射状の人の波を終日つくりだした。デモに止められた都電の乗客は皆、窓から手を振った。
条約は、自然成立という恥ずべきかたちで成立した。
岸は日米安保と憲法改悪を表裏一体として考えていたが、空前の大衆的エネルギーの前に、改憲戦略は後退、迂回へと変更せざるとえなかった。そしてなによりも大衆的なエネルギーによって倒壊の憂き目をみた内閣となった。
反対運動をすすめた側からも一部には挫折の声があがったが、目立ったものは勤労大衆の間に起ち昇った闘いへの信頼、自らの力への覚醒であった。未組織労働者、中小企業労働者の間に、総評の下に結集しようとする空気が高まった。たとえば、病院ストの拡がりのように、民社党や同盟などにクサビとしての働きを期待した資本家の策動は功を奏することはなかった。
勝利することはできなかったが、安保とともにたたかわれた三池闘争は、大きな刺激と衝撃を与えた。戦場からの労働者のたたかいこそ、労働運動の原点であるという流れは拡がっていった。
冒頭に安保闘争60年と述べたが、まるで物尺で計ったかのように、30年たった1990年の時期に、労働運動は流れを変えた。大衆運動は下部組織の戦闘性や創意性に依拠する流れから、これを抑制し、萎縮させる流れへと基調を変えた。総評の生命力ともいうべきものが否定され、連合的なものが主流とされるようになった。
60年安保闘争が蓄積したたたかいの財産は、はじめの30年は継承されるべき、発展させるべきものとされたが、後半30年は忘却されるべきもの、否定されるべきとして扱われてきたのである。
60年安保闘争といえば、街頭デモ(当然、それは労働者の力の発現)を思い浮かべそうであるが、働く労働者がかつてなく生き生きとしていた時代であり、働く者が手を結べば明日をつくりだすことを予感できる時代であった。
60年安保闘争を学ぶことは労働者の人間的な生命力を蘇生させることである。時代を開く鍵穴へと鍵を差し込むことである。(いまむらみのる)
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今年は、歴史的な高揚をみせた1960年の日米安保反対闘争から節目の60年の年である。当時、東京で全学連中執の1人として学生運動の真っ只中にいた今村稔さん(前社会主義協会代表、「憲法を生かす会・灘」共同代表)から60年安保闘争をめぐる思いを寄稿していただいた。【編集部】
よく知られているように、暦の甲、乙、丙……の十干と、子、丑、寅……の十二支の組み合わせが一巡する(10と12の最小公倍数)のが60年であり、還暦といわれ人生の節目とされている。近頃では定年もずいぶん複雑になっているが、なお60歳定年が主流であろう。
わが国の政治史に大きなものを印した1960年の日米安保条約改定反対闘争も、60年を迎えた。正確に言えば、安保闘争は59年4月から60年6月18日までのたたかいであったが、普通では、何万、何十万というデモが連日国会をとりまいた5月20日から6月18日の間のたたかいだと思われている。国会周辺や都心のみならず全国津々浦々に共闘組織がつくられ、デモがくりひろげられたことは言うまでもない。
この間に、6月4日の労働者の生産点ストライキ、10日の羽田・ハガチー闘争(アイゼンハウア米大統領の訪日先遣役だったハガチーを羽田からアメリカ大使館へとヘリコプターで移動なからしめた)などが続いたが、なんといっても、象徴的な1日は15日であった。当時、学生だった私は正午頃、手にプラカードを持った100人ほどの学友と大学の門を出て電車で国会に向かった。国会では開設されて間もない地下鉄・国会議事堂駅がひっきりなしに労働者や学生や市民を吐き出していた。周辺は切れ目のないデモと「陳情」の人であったが、4時ごろに新劇人部隊に右翼のトラックが突入するのを見た。抵抗、反撃された右翼数人は、機動隊の保護を求めるように国会構内に逃げ込んだ。薄暮と緊張感の増す中で、勤務明けの労働者の数もぞくぞくと増え、「安保反対!」「岸を倒せ!」の掛け声は、国会を取り巻き、あるいは銀座方面、新宿方面へと流れていた。
9時頃、デモ隊に、死傷者が出たらしいという声が飛び交うようになった。国会通用門あたりで再三繰り返された機動隊と学生の衝突によるものらしい。殺気が漂う感じになる。国会の前庭は機動隊の大部隊でいっぱいだ、自民党の本部には暴力団も集結しているという噂もある、と新聞記者が教えてくれる。日が変わって16日午前1時頃、国会正面・チャペルセンター前に集結していたデモ隊に向けて催涙弾が撃ち込まれ、それを合図に警棒を振りかざした機動隊がデモ隊に襲いかかり、突入してくる。万余のデモ隊は、有楽町駅へ、靖国神社へと難を避けて退いていく。ここの場面については、ラジオ関東の有名な実況放送が残っている。殺された人が、私も知っていた樺美智子さんだったと知ったのは16日早朝であったと知ったのは16日早朝であった。
16日のデモは、一挙に虐殺抗議一色に変わった。岸政権は、アイク訪日を断念した。かつてなかった外交の汚点となった。18日は自然成立までの最後の日であったが、国会周辺では国立劇場建設予定地に集結した人たちは30万を超えた。デモは大きな道幅いっぱいに拡がる「フランスデモ」となり、銀座に、新宿に、上野にと放射状の人の波を終日つくりだした。デモに止められた都電の乗客は皆、窓から手を振った。
条約は、自然成立という恥ずべきかたちで成立した。
岸は日米安保と憲法改悪を表裏一体として考えていたが、空前の大衆的エネルギーの前に、改憲戦略は後退、迂回へと変更せざるとえなかった。そしてなによりも大衆的なエネルギーによって倒壊の憂き目をみた内閣となった。
反対運動をすすめた側からも一部には挫折の声があがったが、目立ったものは勤労大衆の間に起ち昇った闘いへの信頼、自らの力への覚醒であった。未組織労働者、中小企業労働者の間に、総評の下に結集しようとする空気が高まった。たとえば、病院ストの拡がりのように、民社党や同盟などにクサビとしての働きを期待した資本家の策動は功を奏することはなかった。
勝利することはできなかったが、安保とともにたたかわれた三池闘争は、大きな刺激と衝撃を与えた。戦場からの労働者のたたかいこそ、労働運動の原点であるという流れは拡がっていった。
冒頭に安保闘争60年と述べたが、まるで物尺で計ったかのように、30年たった1990年の時期に、労働運動は流れを変えた。大衆運動は下部組織の戦闘性や創意性に依拠する流れから、これを抑制し、萎縮させる流れへと基調を変えた。総評の生命力ともいうべきものが否定され、連合的なものが主流とされるようになった。
60年安保闘争が蓄積したたたかいの財産は、はじめの30年は継承されるべき、発展させるべきものとされたが、後半30年は忘却されるべきもの、否定されるべきとして扱われてきたのである。
60年安保闘争といえば、街頭デモ(当然、それは労働者の力の発現)を思い浮かべそうであるが、働く労働者がかつてなく生き生きとしていた時代であり、働く者が手を結べば明日をつくりだすことを予感できる時代であった。
60年安保闘争を学ぶことは労働者の人間的な生命力を蘇生させることである。時代を開く鍵穴へと鍵を差し込むことである。(いまむらみのる)