新社会兵庫ナウ

若者の広場(2024年8月28日号)
原発事故被災地を訪ねて

2024/08/28
 今年5月末、仲間数人で福島第一原発事故の被災地を訪ねる旅をしました。
 党の先輩で、原発事故被害者「相双の会」会長の國分富夫さんのご案内で、現在も大半が帰宅困難区域であるが、一部避難指示解除も進む、浜通り中部を周りました。
 津波被害も甚大であった請戸漁港は、北寄貝や伊勢海老、鮭などの水揚げが盛んでしたが、風評被害で漁業者が激減していました。
 双葉町は、古くから親しまれてきた海水浴場や山があり、小学校もある小さな町でしたが、今はその面影もなく、高い堤防に囲まれた何もない土地が広がっていました。
 内陸に向かうと、伸びた草陰に覆い隠された空き家が点在する農家の集落がありました。大熊町に向かう山道に入ると、車に乗せていた放射能測定器がけたたましい音で鳴り続けました。「住居周辺は表層土を削り取って除染はできても、山は除染することはできない。実際、日々調査をしているが、山菜やキノコ、川魚からは高い放射線が検出されている。雨が降れば、放射能が山から町に流れる。除染は移染でしかない」と説明していだきました。
 帰宅困難区域が解除された浪江町の市街地では、会社や家などの建物はあっても人の気配がなく、却って不気味な感じがしました。解除になっても戻ってくるのは高齢者ばかりで若い人が戻ってこないのは、食べていけないことがやはり大きいといいます。
 戻ってくる人には国から移住補助が出て、最初は復興を胸に戻ってきた会社や若い人達もいたそうですが、あまりにも地域に人がおらず、皆しょげて出て行ってしまうと國分さんは言います。最近は原発被災地の報道もほとんどなく、ともすれば復興が少しずつでも進んでいるような印象を持ちそうになりますが、実際は12年たっても本当に何も進んでいない現状でした。
 何よりも、國分さん自身のお話しを聞いてより身近に感じました。國分さんは、自らも原発事故で被災し、住んでいた南相馬市小高地区を追われました(現在は相馬市に在住)。事故翌年からは、東電や国の責任追及をする集団訴訟の副団長を担ってきました。
 また、「相双の会」は、全国各地に散らばった避難者も含め、被災者ひとりひとりとつながり、日常を取り戻す活動を粘り強く続けています。
 事故前には、夫婦と娘家族で暮らしながら、畑をし、日常的に山菜を取りに行ったり、ご近所の人が来てお茶を飲んで語り合ったり、地域の行事も楽しみで、ささやかながらも地域の自然や文化に根差した幸せな生活がありました。そんな故郷や心の拠り所をすべて奪う原発はあってはならない、全国の市民と連帯して原発を止めたいという強い気持ちで12年が経った今も、奔走されています。
 ぜひ、みなさんも原発被災地を訪れ自分の目で見て感じてください。
(岡崎彩子)