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ひょうご碑物語80
兜麓底績碑(西宮市広田町)
2024/08/14
甲(兜)山の麓の地底に水路を掘った功績を称えるという意味の碑で、この水路は現存し今も活用されている
兜麓底績碑(とろくていせきひ)とは、甲(兜)山の麓の地底に水路を掘った功績を称える碑という意味。言い伝えによれば、1641(寛永18)年に、広田神社の南部一帯は大干魃に見舞われた。当時、この地域の所有地であった社家郷山に降った雨水は、甲山の北を通って武庫川に合流していたが、「われらの山の社家郷山から集まる水は本来われらのもの」と考えた農民らは、現在の甲山高校の裏に60メートルのトンネルを掘って仁川から取水することにした。これに怒った仁川下流の農民の度重なる妨害があり、一触即発の事態を迎える。夜討ちの情報が入った時、広田神社の神官であった紋左衛門は殺気立つ村民をなだめ、単身工事現場に向かい、神官の白装束、烏帽子に般若の面をかぶって岩の上に端座した。夜、奇襲に来た農民はこれを見て、「天狗」と思い込み、おそれおののき逃げ戻ったという。それ以降、流血の惨事は回避され、工事は順調に進み、トンネルは1643年に完成したという。
この水路は現存しており、今も西宮市の上水道の一部として活用されている。
(鍋島)
【メモ】阪急電車・西宮北口駅から阪急バス・甲東園行きに乗車、広田神社前下車。境内の東側にある。
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兜麓底績碑(とろくていせきひ)とは、甲(兜)山の麓の地底に水路を掘った功績を称える碑という意味。言い伝えによれば、1641(寛永18)年に、広田神社の南部一帯は大干魃に見舞われた。当時、この地域の所有地であった社家郷山に降った雨水は、甲山の北を通って武庫川に合流していたが、「われらの山の社家郷山から集まる水は本来われらのもの」と考えた農民らは、現在の甲山高校の裏に60メートルのトンネルを掘って仁川から取水することにした。これに怒った仁川下流の農民の度重なる妨害があり、一触即発の事態を迎える。夜討ちの情報が入った時、広田神社の神官であった紋左衛門は殺気立つ村民をなだめ、単身工事現場に向かい、神官の白装束、烏帽子に般若の面をかぶって岩の上に端座した。夜、奇襲に来た農民はこれを見て、「天狗」と思い込み、おそれおののき逃げ戻ったという。それ以降、流血の惨事は回避され、工事は順調に進み、トンネルは1643年に完成したという。
この水路は現存しており、今も西宮市の上水道の一部として活用されている。