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寄稿
あれも…、これも…、1989年12月29日だった(2) 今村稔
2024/04/10
(2)大衆闘争の後退は許せない―岡崎ひろみ選挙
株価の更新記録で金融界、経済界がザワツイタ1989年12月29日、兵庫の地ではもう一つの出来事が生じていた。開会予定の日本社会党兵庫県本部の続開大会に警官隊が出動したのである。そもそもなぜ「続開」大会なのか。
来たるべき総選挙をたたかう兵庫県本部の方針を決定する大会は12月の初旬に招集されていた。そこで公認候補の全陣容が決定されることになっていた。ところがその大会は、開会冒頭から大混乱が生じ、休会となった。年内に大会を再開することとし、一旦解散となった。
なぜそのような事態になったのか。そのためにいささか時間を遡らなければならない。
◇
1989年は1月に昭和が平成に改元された年であったが、前年末にリクルート汚職が明らかになる中で、世間の反対を押し切って4月から消費税を徴収した竹下内閣への逆風が吹きまくり、6月の参院選では与野党逆転で自民党が大敗北した。
社会党は土井たか子委員長のもとで女性候補者が大健闘した。社会党はこの勢いを加速させるために来たる総選挙では「4.5人区には複数候補の擁立」「女性候補の発掘」を訴えた。
兵庫1 区( 神戸市全域)では1区協(神戸市内8総支部の協議会)はこの本部の呼びかけに応え、討議を重ね、次期総選挙における公認候補として現職の河上民雄と女性の新人の岡崎ひろみの2人を決め、申請することにした。
ところが、右派が強かった県本部はこれを認めず、岡崎擁立を妨げる意図から河上、杉田哲の複数擁立を進めてきた。
12月初旬に招集された県本部大会では1区協の「河上・岡崎の2名案」と県本部の「河上・杉田の2名案」が激しく争われることが必至であった。
だが、開会された県本部大会の冒頭、「河上が公認候補を辞退」と誰一人想像もしなかった情報がもたらされたのだ。「真相の説明を」「県本部は関与しているのか」「県本部の態度・対応は?」等々を求める代議員の動きで会場は大混乱に陥り、深夜10時近くまで休憩状態が続いた大会はついに継続不能となり、大会の休会宣言がなされたのである。
◇
こういう経過の後、中断されていた大会は、12月29日に続開されることになった。しかし、ここで前回に輪をかけるような異常な事態が現出した。各地からの代議員が会場である教育会館に到着すると、そこには警備出動の警官隊の姿があった。県本部に批判的であった総支部は言うまでもなく、中立的とみられていた総支部も、「県本部派」の総支部も、県本部非難の態度を明らかにした。警官の出動を要請したのは県本部か?会場である教育会館か?いずれにせよ、左派の岡崎擁立を阻止しようとする過剰反応であった。党員や支持者の信頼を失う暴挙であった。代議員にとってはかつて経験したことのない県本部の裏切りであった。大会は解散のやむなきに至った。
県本部は筋の通った党内議論を指導する権威を失い、とくに兵庫1区の公認については機関決定は不能という状態を呼び込んでしまった。
年明けとともに岡崎陣営は無所属でたたかうことが大衆の信頼に応える道であると判断し、準備を深めていった。
90年2月4日告示、2月18日投票となった総選挙において兵庫1区で岡崎は5位当選となった。
(3)偶然は意識できない必然
1989年12月29日、本稿冒頭(前号)で述べたように、わが国では日経平均株価最高値というバブルの絶頂現象が現れた。それは同時に減速、停滞のスタート台でもあった。
かたや兵庫の地では近づく総選挙の候補者擁立をめぐる左右対立の激化という緊張を背景として、社会党県本部大会に警官隊が出動というありえない事態が生じていた。
この二つが時を同じくしたということについては、人々はまったくの偶然ととらえる。当然である。この二つを結ぶ緊密な因果関係があるわけではない。この時に始まり長く続いた経済の停滞は底に科学的な法則を持つ歴史的な流れである。この流れに表裏をなすものとして、わが国では階級闘争の後退が続いた。労働者の鋭気を奪い、階級闘争の後退、解体を促すような作用が生まれたことは否めない。
しかし、作用には反作用がある。岡崎選挙は階級闘争を後退させてはならない、大衆の力を衰退させてはならないとする反作用であった。意識した力も働き、無意識の力も働いたであろう。
作用に対する反作用は密着して現れるとは限らない。はるか離れた地点にぼんやりと姿を見せることがしばしばである。その関係をきっちりと捉えようとすれば、強く鋭い意識の力は欠かせない。思考の力を積極的に維持し、鍛えることが必須である。
「偶然とは、まだ意識されない必然である」と言ったのはエンゲルスであったか?偶然が裏に動く諸関係が認識され必然となることはわれわれの力が前進することである。
1989年に二つの出来事が時間を共にしたということは偶然である。しかし、二つが共に起こるべき原因を抱えていたということは偶然であったと言えない。
われわれはつねに歴史の流れをしっかり見つめ、自らの立ち位置を確かめることによって、そこに掉さす態度を持たなければならない。
ともすれば流れの中で、まどろみがちになり、必然の糸を手放そうとする態度に自ら鞭を打ち合おう。主体的であろうと、仲間と語り合い、学び合い、励まし合って行動を強めていこう。
(文中、敬称略)
(いまむらみのる・新社会党灘総支部)
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(2)大衆闘争の後退は許せない―岡崎ひろみ選挙
株価の更新記録で金融界、経済界がザワツイタ1989年12月29日、兵庫の地ではもう一つの出来事が生じていた。開会予定の日本社会党兵庫県本部の続開大会に警官隊が出動したのである。そもそもなぜ「続開」大会なのか。来たるべき総選挙をたたかう兵庫県本部の方針を決定する大会は12月の初旬に招集されていた。そこで公認候補の全陣容が決定されることになっていた。ところがその大会は、開会冒頭から大混乱が生じ、休会となった。年内に大会を再開することとし、一旦解散となった。
なぜそのような事態になったのか。そのためにいささか時間を遡らなければならない。
◇
1989年は1月に昭和が平成に改元された年であったが、前年末にリクルート汚職が明らかになる中で、世間の反対を押し切って4月から消費税を徴収した竹下内閣への逆風が吹きまくり、6月の参院選では与野党逆転で自民党が大敗北した。
社会党は土井たか子委員長のもとで女性候補者が大健闘した。社会党はこの勢いを加速させるために来たる総選挙では「4.5人区には複数候補の擁立」「女性候補の発掘」を訴えた。
兵庫1 区( 神戸市全域)では1区協(神戸市内8総支部の協議会)はこの本部の呼びかけに応え、討議を重ね、次期総選挙における公認候補として現職の河上民雄と女性の新人の岡崎ひろみの2人を決め、申請することにした。
ところが、右派が強かった県本部はこれを認めず、岡崎擁立を妨げる意図から河上、杉田哲の複数擁立を進めてきた。
12月初旬に招集された県本部大会では1区協の「河上・岡崎の2名案」と県本部の「河上・杉田の2名案」が激しく争われることが必至であった。
だが、開会された県本部大会の冒頭、「河上が公認候補を辞退」と誰一人想像もしなかった情報がもたらされたのだ。「真相の説明を」「県本部は関与しているのか」「県本部の態度・対応は?」等々を求める代議員の動きで会場は大混乱に陥り、深夜10時近くまで休憩状態が続いた大会はついに継続不能となり、大会の休会宣言がなされたのである。
◇
こういう経過の後、中断されていた大会は、12月29日に続開されることになった。しかし、ここで前回に輪をかけるような異常な事態が現出した。各地からの代議員が会場である教育会館に到着すると、そこには警備出動の警官隊の姿があった。県本部に批判的であった総支部は言うまでもなく、中立的とみられていた総支部も、「県本部派」の総支部も、県本部非難の態度を明らかにした。警官の出動を要請したのは県本部か?会場である教育会館か?いずれにせよ、左派の岡崎擁立を阻止しようとする過剰反応であった。党員や支持者の信頼を失う暴挙であった。代議員にとってはかつて経験したことのない県本部の裏切りであった。大会は解散のやむなきに至った。
県本部は筋の通った党内議論を指導する権威を失い、とくに兵庫1区の公認については機関決定は不能という状態を呼び込んでしまった。
年明けとともに岡崎陣営は無所属でたたかうことが大衆の信頼に応える道であると判断し、準備を深めていった。
90年2月4日告示、2月18日投票となった総選挙において兵庫1区で岡崎は5位当選となった。
(3)偶然は意識できない必然
1989年12月29日、本稿冒頭(前号)で述べたように、わが国では日経平均株価最高値というバブルの絶頂現象が現れた。それは同時に減速、停滞のスタート台でもあった。かたや兵庫の地では近づく総選挙の候補者擁立をめぐる左右対立の激化という緊張を背景として、社会党県本部大会に警官隊が出動というありえない事態が生じていた。
この二つが時を同じくしたということについては、人々はまったくの偶然ととらえる。当然である。この二つを結ぶ緊密な因果関係があるわけではない。この時に始まり長く続いた経済の停滞は底に科学的な法則を持つ歴史的な流れである。この流れに表裏をなすものとして、わが国では階級闘争の後退が続いた。労働者の鋭気を奪い、階級闘争の後退、解体を促すような作用が生まれたことは否めない。
しかし、作用には反作用がある。岡崎選挙は階級闘争を後退させてはならない、大衆の力を衰退させてはならないとする反作用であった。意識した力も働き、無意識の力も働いたであろう。
作用に対する反作用は密着して現れるとは限らない。はるか離れた地点にぼんやりと姿を見せることがしばしばである。その関係をきっちりと捉えようとすれば、強く鋭い意識の力は欠かせない。思考の力を積極的に維持し、鍛えることが必須である。
「偶然とは、まだ意識されない必然である」と言ったのはエンゲルスであったか?偶然が裏に動く諸関係が認識され必然となることはわれわれの力が前進することである。
1989年に二つの出来事が時間を共にしたということは偶然である。しかし、二つが共に起こるべき原因を抱えていたということは偶然であったと言えない。
われわれはつねに歴史の流れをしっかり見つめ、自らの立ち位置を確かめることによって、そこに掉さす態度を持たなければならない。
ともすれば流れの中で、まどろみがちになり、必然の糸を手放そうとする態度に自ら鞭を打ち合おう。主体的であろうと、仲間と語り合い、学び合い、励まし合って行動を強めていこう。