新社会兵庫ナウ

若者の広場(2024年2月28日号)
私の活動の原風景

2024/02/28
 1995年の阪神・淡路大震災のあと、中2の自意識をこじらせていた私は、神戸で年齢にかかわらず様々なボランティアが活躍しているとの報道を聞き、自らの無力さを憂いて神戸の地を踏むことを決意した。神戸でなら自分を社会の役に立たせるような生き方ができるのではないかと、今思えば本当に安直な考えだとは思うけれども。
 1999年に大学に入学すると、震災の復興にかかわるボランティアをしたいと仮設住宅や復興住宅で活動する大学のボランティアサークルに入り、活動し始めた。そこでは、現在も続いているイベントにもかかわることになり、そこで初めて社会運動との接点ができた。先輩たちが1997年に神戸空港反対を取りあげていた。その運動の中で学生という立場で市政に対し自分たちの意見を発信していた。
 私が大学に入った頃にはすでに学生運動の跡はキャンパスにはなかった。学生が政治にかかわることはすでに疎く、政治運動にかかわれば就職活動がうまくいかなくなるとまことしやかにささやかれ、できるだけ距離を置くべきものだと私自身も思っていた。正直なところ、最初はなぜ学生が政治に意見を言うような活動をするのかと、疑問に思うと同時に、率直な言い方をすれば怖かった。
 いろいろな活動にかかわるうちに、運動に対して少しずつ考えが変わってきた。そんな強い意見を発していたつもりもなかったが、同じ学生からは疎まれ、大人にはたしなめられた。極端な話、人間社会の中に生きている限り、すべての選択は政治的であるはずだ。にもかかわらず社会に意見を言う行動を疎み、距離を置こうとしてしまう。それはなぜだろうかと。
 できるだけ世の中で目立たずに、意見を言わずに生きていくことは、サイレント・マジョリティとして、無意識に現状を肯定していくことに加担している。そんな人が他人に対して「政治的」という言葉を使う場面というのは、少なからず排除の理論が働いている。自分自身の政治性については無自覚なままに、意見の違う人たちに向かって「政治的」だと異物を切り捨てるように言ってのけてしまう。それが多くの人の現状でもあると思う。
 そんな視点を私自身も内面化している。署名行動をして街頭に立つとき。募金を呼び掛けて街頭に立つとき。無関心に通り過ぎていく人、かかわりたくないと早足に通り過ぎる人、それもまた私自身でもあるように感じる。賛成であれ、反対であれ、自身の言葉で語れる人はすごいと思う。
 人と話しているときによく「正解はどっち」とか「どうすればよかった」ということを聞くことが多くなったように思う。効率の良いほう、摩擦の少ないほうを選ぶような風潮が強いように感じる。それはどこかに正しい判断があるかのような、どこか責任感のない表現でもある。自分がどうしたいか、どうありたいかで意見を言えるようになりたいと思う。
(羽田野祐司)