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ひょうご碑物語67
大石内蔵助赤穂出立の碑(赤穂市御崎)
2023/06/14
【写真説明】赤穂の街と海を眺める東御崎展望台広場に大石内蔵助の銅像と並んで建てられている石碑
碑には「元禄十四年(一七〇一年)三月十四日、赤穂城主浅野内匠頭長矩は、江戸城松の廊下において高家吉良上野介義央に刃傷したため、城域は没収、家臣は離散、赤穂三代五十七年で浅野家は断絶した。赤穂城を明け渡した城代家老大石内蔵助良雄は、尾崎村『おせど』の寓居で残務処理にあたっていたが、この赤穂御崎から海路妻子を送ったあと、菩提寺花岳寺で亡君の百カ日法要をつとめ、翌六月二十五日に山科へ旅立った。(後略)」とある。
赤穂御崎から見渡す美しい瀬戸内海の風景を前にして、城下への尽きぬ名残とともに浅野家の再興を願いながら赤穂を離れる大石の胸中は察するに余りある。
「忠臣蔵」の吉良上野介は敵役として登場するが、吉良は地元では名門であり、人望も厚かったと言われる。それがなぜあのような事件になったのか?一説によると、戦の無くなった江戸時代における武士への評価の違いと江戸と赤穂の気候の違いの認識のずれが原因だったと言われている。
残務処理では、発行していた藩札を全部現金に交換したとの話もある。(森山)
【メモ】JR播州赤穂駅から南東へ車で約15分。碑の横には台座を含めて高さが約5mある大石内蔵助の全身像がある。
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碑には「元禄十四年(一七〇一年)三月十四日、赤穂城主浅野内匠頭長矩は、江戸城松の廊下において高家吉良上野介義央に刃傷したため、城域は没収、家臣は離散、赤穂三代五十七年で浅野家は断絶した。赤穂城を明け渡した城代家老大石内蔵助良雄は、尾崎村『おせど』の寓居で残務処理にあたっていたが、この赤穂御崎から海路妻子を送ったあと、菩提寺花岳寺で亡君の百カ日法要をつとめ、翌六月二十五日に山科へ旅立った。(後略)」とある。
赤穂御崎から見渡す美しい瀬戸内海の風景を前にして、城下への尽きぬ名残とともに浅野家の再興を願いながら赤穂を離れる大石の胸中は察するに余りある。
「忠臣蔵」の吉良上野介は敵役として登場するが、吉良は地元では名門であり、人望も厚かったと言われる。それがなぜあのような事件になったのか?一説によると、戦の無くなった江戸時代における武士への評価の違いと江戸と赤穂の気候の違いの認識のずれが原因だったと言われている。
残務処理では、発行していた藩札を全部現金に交換したとの話もある。(森山)
【メモ】JR播州赤穂駅から南東へ車で約15分。碑の横には台座を含めて高さが約5mある大石内蔵助の全身像がある。