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ひょうごミュージアム
ひょうご碑物語65
忠臣蔵早駕籠の碑
(相生市・赤穂市)
2023/03/08
【写真説明】相生市と赤穂市の境にある高取峠の頂上に、松之廊下での刃傷事件を知らせる早駕籠を再現した像が立つ
相生市と赤穂市の境の高取峠には国道250号線が走っているが、急カーブの連続で現在でも難所である。その頂上部にこの碑が建てられている。
元禄14年(1701年)3月19日の午前4時ごろ、赤穂城を目指す2丁の早駕籠がこの高取峠を突っ走っていった。江戸城松之廊下で突発した赤穂城主・浅野内匠頭の殿中刃傷を知らせる第1の使者、早水藤左エ門と萱野三平を乗せた駕籠だ。
この早駕籠は、江戸から155里(約600㎞)を昼夜兼行でわずか4日半で江戸の事件を家老・大石内蔵助に知らせ、使命を果たした。
電話もメールもない当時は、たんに情報を伝達するだけならば飛脚が一番早かったと言われている。しかし、人を移動させるのなら早駕籠だった。馬に乗ればもっと早いように思われるが、早駕籠なら各宿場に人足が用意されており、昼夜を問わず走ることができるが、馬はどの宿場でも用意されているとは限らず、その上、当時の夜は漆黒で、馬は走れなかったと言う。
早駕籠1丁には6人の人足が必要とされるため、江戸から赤穂まで、約70回の乗り継ぎをしたと言われているので計840人の人足が携わったことになる。
(森山)
【メモ】JR赤穂線・坂越駅から徒歩約30分。
※アイコンクリックでデータをご覧ください。
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相生市と赤穂市の境の高取峠には国道250号線が走っているが、急カーブの連続で現在でも難所である。その頂上部にこの碑が建てられている。
元禄14年(1701年)3月19日の午前4時ごろ、赤穂城を目指す2丁の早駕籠がこの高取峠を突っ走っていった。江戸城松之廊下で突発した赤穂城主・浅野内匠頭の殿中刃傷を知らせる第1の使者、早水藤左エ門と萱野三平を乗せた駕籠だ。
この早駕籠は、江戸から155里(約600㎞)を昼夜兼行でわずか4日半で江戸の事件を家老・大石内蔵助に知らせ、使命を果たした。
電話もメールもない当時は、たんに情報を伝達するだけならば飛脚が一番早かったと言われている。しかし、人を移動させるのなら早駕籠だった。馬に乗ればもっと早いように思われるが、早駕籠なら各宿場に人足が用意されており、昼夜を問わず走ることができるが、馬はどの宿場でも用意されているとは限らず、その上、当時の夜は漆黒で、馬は走れなかったと言う。
早駕籠1丁には6人の人足が必要とされるため、江戸から赤穂まで、約70回の乗り継ぎをしたと言われているので計840人の人足が携わったことになる。