田捨女の碑(姫路市網干区)
  田捨女(でんすてじょ)は、1633(寛永10)年、丹波国氷上郡(現・丹波市)柏原の名家であり代官の田季繁の娘として生まれる。氏名は田ステ。「女」は女流歌人に添える接尾辞。
 6歳の時に「雪の朝二の字二の字の下駄の跡」の句を詠んで周囲を驚かせたと言われ、その才を認められて、北村季吟らに師事。和歌と俳諧を学び、貞門派の女流六歌仙のひとりに数えられた。
 41歳で夫と死別。5男1女の子どもの独立を見届けた後、仏門に入り、かねてから敬っていた盤珪禅師に帰依して播州網干(現・姫路市網干区)の龍門寺(りょうもんじ)に移り住み、寺のすぐそばに不徹庵(現・不徹寺)を創設、名も貞閑と改めた。俳名はいよいよ高まり、弟子も多かったと言われている。1698(元禄11)年に死去し、龍門寺に葬られ墓も現存する。
 柏原に生誕地碑が存在するが、網干にも彼女の功績を称えた碑が存する。
 ちなみに、不徹庵の「不徹」とは、物事に徹するという境地のさらに上の「何事にも徹しない」という悟りの境地を指すのだとか。
 旧日本社会党の参議院議員として活躍した元ニュースキャスターの故・田英夫氏は、捨女の子孫だと言われている。
【メモ】碑は山陽電鉄網干駅から南西へ約1q、徒歩約20分の網干陣屋跡の横に建てられている。
(森山)
写真:田捨女の碑は生誕地の丹波・柏原の他に墓のある播州網干の地にも建つ
2019年2月12日号