「新社会兵庫」 4月28日号
あわはら8選、小林4選果たす 県会・井上3度目も次点で惜敗
 4月3日告示、12日投開票で行われた第18回統一自治体選挙・前半戦で、新社会党兵庫県本部(粟原富夫委員長)は県議選に神戸市灘区(定数2)で井上力(新・65歳)、神戸市議選には灘区(定数6)で小林るみ子(現・64歳)、中央区(定数6)であわはら富夫(現・61歳)の3人の公認候補を擁立して闘った。 今回が3度目の県会挑戦となった井上候補は、県議会改革のために新たに立ち上げられた政治団体「無所属チーム議会改革」の推薦も受け、県議会の改革を前面に押し出して奮闘、7415票を獲得したが、みたび次点で惜敗、議席獲得はならなかった。神戸市議選では小林候補、粟原候補が厳しい闘いを勝ち抜き、それぞれ4選、8選を果たし、市会の現有2議席を守った。

 9人が立候補した神戸市議選・灘区で、小林候補は女性の支援者たちの支えを大きな力に3963票を獲得、前回と同じ5位で当選した。
 小林候補は、「くらし・いのち・平和」をスローガンに、選挙戦では街角での演説に積極的に取り組み、雨の中でも連日10数ヵ所のスポット演説を重ねた。なかでも「介護」や「子育て」の課題に焦点を当てた訴えには大きな手応えを感じた。介護保険制度の改悪を批判し、高齢者と家族が安心して利用できる制度、介護労働者の待遇改善などを訴える演説には介護の不安や負担を抱える有権者から共感と期待を込めた反応が寄せられた。
 あわはら候補の中央区は、今回から定数が1増のところに若い新人4人を含む9人が立候補、激戦区となったが、あわはら候補は前回より380票増の4586票を獲得。順位も一つあげて4位で当選を果たした。
 よもやの最下位当選となった前回の経験を踏まえ、今回は危機感で陣営が最後まで引き締まり、地元の団地では「支える会」も新たにつくられたり、支持者の電話作戦などの選挙運動への積極的な参加に結びついた。
 「とことん市民の味方」をモットーとするあわはら候補は精力的に街頭演説に取り組み、具体的な政策の訴えを広げた。とくに手応えがあったのは、市民の立場に立った市政批判。市内中心部の三宮駅周辺の再開発を優先させようとする開発行政の復活の動きを鋭く批判しながら、「今こそ高齢者の福祉の充実を」などと生活に密着した訴えが有権者に響いた。「『いまの市政に最も必要な議員』とのキャッチコピーにぴったりの人」との印象を聞けて心強かったと、勝利後は顔がほころんだ。

写真:当選の知らせに乾杯やバンザイで喜ぶ小林るみ子事務所(上)とあわはら富夫事務所(下)=4月12日
憲法を生かす会・ひょうごネットが集いを呼びかけ
 非核神戸方式の誕生から今年で40年を迎える。その方式の源となった「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」(別掲)が1975年3月18日、神戸市会で全会一致で採択された。それから40年後の3月18日、「非核神戸方式40周年のつどい〜神戸港を再び軍港化させないために〜」が、憲法を生かす会・ひょうごネットの呼びかけで神戸市中央区の兵庫県私学会館で開かれ、約100人が参加した。

 非核神戸方式は、神戸港に入港する外国艦船に港湾管理者である神戸市が非核証明書の提出を求め、それを提出しない場合は入港を認めないというものである。この方式が始まって以降、神戸港には7カ国、20隻の外国艦船が入港したが、1998年にカナダの軍艦が、同国が非核国であるとの理由から非核証明書なしで入港した一例を除き、いずれも神戸市の求めに応じて証明書を提出している。核搭載の有無を明確にしない立場を取る米国の艦船はこの間、1隻も入港していない。
 40周年の集会は、この非核神戸方式の意義を再確認するとともに、特定秘密保護法の施行によって核に関する情報が秘密にされる恐れがあったり、集団的自衛権行使のための関連法整備が安倍政権によって進められつつある危うい状況の中にあって、あらためて非核神戸方式を守る決意を強めようと持たれたものだ。
 時代をさかのぼれば、神戸港には、朝鮮戦争では米国の出撃地点となり、ベトナム戦争時も重要な軍事拠点だったという暗い歴史がある。
 集会では、こうした過去の事実の取材をもとに昨秋、MBSテレビで放映されたローカル・ドキュメンタリー番組「映像‘14 知られざる最前線〜神戸が担ってきた”日米同盟”」の制作に携わった毎日放送の坪井兵輔さんと新社会党神戸市議団のあわはら富夫神戸市議の2人から非核神戸方式をめぐる話を聞いた。
 坪井さんは、神戸が軍需産業や医療産業などの関連で軍事的な安全保障体制に深く組み込まれてきている現状をさまざまな事実から指摘、危機感を示した。また、朝鮮戦争時には海上輸送だけでも8,000人以上の民間人が動員され(全体では2万人を超えると推測される)、そして資料によるだけでも56人の死者(実際にはその3〜4倍と推定)が出たと、隠されてきた事実にも触れ、「集団的自衛権の行使は日本の民間人なしにはできず、必ず民間人が巻き込まれる」と、危惧を強調した。
 あわはら市議からは、非核神戸方式の歴史的経緯やその仕組み、意義などが解説され、陰に陽に米国からの圧力がかかっていることも報告された。
 集会では、質疑や意見交換も交え、神戸港を再び軍事化させないためにも、非核神戸方式を守る世論を広げ、集団的自衛権行使のための法制化に反対する運動を強めていこうと誓い合った。

写真上:40周年の集いには100人が集まった=3月18日、神戸市
写真下:話す毎日放送の坪井兵輔さん=3月18日、神戸市

■核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議
 神戸港は、その入港船舶数及び取扱い貨物量からみても、世界の代表的な国際商業貿易港である。
 利用するものにとっては使いやすい港、働く人にとっては働きやすい港として発展しつつある神戸港は、同時に市民に親しまれる平和な港でなければならない。
 この港に核兵器が持ちこまれることがあるとすれば、港湾機能の阻害はもとより、市民の不安と混乱は想像に難くないものがある。 よって神戸市会は核兵器を積載した艦艇の神戸港の入港を一切拒否するものである。
以上、決議する。
1975年3月18日
神戸市議会

大衆運動でかちとったものは、大衆運動で守ろう
(一)
 非核神戸方式は、1975年3月18日の満場一致の神戸市議会決議によって確定され、本年40周年を迎える。
 われわれがかちとった非核神戸方式は、時とともに貴重さを増し、国内のみならず、海外においても誇らしい評価を得ている。しかし反面、非核神戸方式をあわよくば廃棄し、ならぬまでも腐食・風化させようとする企みもまた巧妙執拗であることを忘れることはできない。
 言うまでもないことだが、非核神戸方式ができるまでの道のりには、複雑多岐にわたってさまざまな困難が横たわっていた。それはいかにして実現に至ったのか。
 「神戸方式」とはいうものの、それは神戸のたたかいによってのみ実を結んだものではない。否、それ以上のものとして全国的な反核平和運動の力、とくに高揚していた労働者の力が働いていた。非核神戸方式の実現には、当時の、革新自治体をつぎつぎに生み出していった反独占・反自民・全野党共闘の勢いある流れが大きく働いていた。
 1973年の神戸市長選挙の勝利は、非核神戸方式の実現には欠くことのできない前段の階梯であったが、マスコミは当時の盛り上がりをそのまま示すかのように「革新、日本列島を制す」と報じた。また時を同じくした全国的な運動・春闘は国民春闘と呼ばれたが、それは春闘が労働者の生活防衛の枠を破って全勤労諸階層のたたかいに発展する可能性を予示するものであった。
 このような一般的条件が背景としてあったからこそ、非核神戸方式が結実したのであるが、そこに働いた神戸の具体的特殊的な経過や条件はどうだったのだろうか。
(二)
 神戸にあった特別な条件を考える時、第一に指を折らねばならないものは、73年9月の市長選挙における勝利である。
 それは政権自民党に対する社会、公明、民社、共産の4党共闘によって闘われたが、各地に革新自治体が誕生した当時にあっても全野党共闘の成立は全国的にも初めてであった。それだけに反自民の革新自治体運動という流れを励まし、決定づけるものとなった。神戸では、1年半後の非核神戸方式につながった。
 73年の全野党共闘の実現をリードしたのは社会党であったが、それは長きにわたってたたかわれた党内論争の賜物であった。単なる論争にとどまらず、組織的、実践的な運動の競争によって決着をつけようとする勢いを持ったものであった。
(三)
 73年を4年さかのぼった69年の市長選挙は、勇退する原口忠次郎市長の後継として助役の宮崎辰雄が初出馬し当選した選挙であったが、宮崎の軸足が自民党に置かれていることを厳しく批判する声が社会党内に強く、左派、若手党員は宮崎に対決する独自候補の擁立を求めたが、結局は党県本部の擁立するところとならず、結果的には「見送り」となった。
 社会党の市長選見送りと同年の総選挙の敗北の口悔しい思いを込めた左派、若手党員の総括は、直ちに再起のエネルギーとなった。
 1年後の70年11月に兵庫県知事選挙が行われたが、不戦敗は許されないとする空気が党内に充満し、県本部執行部も「闘おうとする全党員の意思を確認し、汲み尽くすこと、金額まで定めたカンパを確認、拠出すること」という異例ともいえる闘争方針を提起した。
 社共共闘となった知事選は、結果は惜敗であったが、大衆運動、党建設で前進した70年代のスタートラインとなった。共闘を組んで共産党と競争した刺激は、社会党の活動家に、思想的強化と大衆的な宣伝能力を備えた党建設を迫った。規律ある機関運営(機関中心主義)、総支部事務所の設置と専従者の配置、学習会の恒常的開催などが相言葉となり党活動の目標となった。
 71年の統一地方選と参院選、72年の総選挙を通じて社会党は失地恢復と反撃の歩みを強めた。曖昧さを残していた政治路線も、春闘の前進やベトナム反戦闘争の高揚もあいまって、反独占・反自民・全野党共闘路線を鮮明にしていった。
(四)
 73年、再度の神戸市長選の年が訪ずれた時、年初から党内は宮崎市長の保革相乗りを拒否し、反独占・反自民の候補者を擁立して革新神戸市政を打ち立てようという空気がおおっていた。宮崎推薦・保革相乗りがベターであるとする意見は公然とは主張されなかった。 反自民の革新市政を!という青年党員が主導する火のような動きは、遅々として進まない県本部の選考工作を尻目に、候補者に擬せられる人物を動かし、県本部を突き上げる動きになっていった。
 そういう状況が影響したものか5月になると宮崎やその周辺から、密かに堀昌男県本部委員長に「身柄を社会党に預けたい」という打診があった。打診を受けて堀県本部執行部がクリアすべき点は、「党内が納得する政策づくり(党の意見集約)」「宮崎に本当にその政策の受け入れを確約させる」の2つであった。
 堀は中央本部と協議し、宮崎に提示するものとして、@反独占・反自民の抵抗闘争を通じ、市民の命とくらしを守る、A関西国際空港の建設に反対し、公害のない健康で住みよい神戸をつくる、B中央教育審議会の答申は権力的な教育の中央統制と教員の管理強化をねらうものであり、これに反対し、国民の教育権を守る、C小選挙区制に反対し、憲法と民主主義を守る、D戦争につながる日米安保条約廃棄、反基地・反自衛隊政策を推進、平和と民主主義を守る―、をまとめた。
 提示すべき協定案は、6月10日の臨時県本部大会で承認され、ただちに宮崎に提示され、協定として了承・調印された。党中央と県本部、宮崎の三者の協定となった。
 これにもとづく社会党からの働きかけに対して公明党は了解した。民社党は躊躇したが、時間をおいて了解した。共産党は、当初は疑いをはさみながらも、協定のDを高く評価し、すでに決定していた予定候補を下して協定に参加した。
 最後は宮崎との合意にたどりつけるとしていた自民党は、協定に共産党が加わったこと、構図が自民党対4野党となったために急遽対決姿勢を強め、独自候補を擁立した。
(五)
 8月13日、4野党と宮崎市長の間にあらためて政策協定が締結・調印され、さらに政策協定を支持する多くの民主団体が結集し「市民とともに革新神戸をきずく会」が組織された。9月7日、大倉山の市立中央体育館では溢れんばかりの支持者によって「宮崎辰雄をはげます大集会」が開催された。10月早々の告示とともに未曾有の熱気を帯びて選挙戦が繰りひろげられた。
 一方、危機感を異様に募らせた財界や自民党は中央・地元が一体となって権力、金力、人力を投入した。「今太閤」とはやされた田中首相は4度も来神した。反動の傭兵・勝共連合が全国動員で投入された。
 文字どおり大衆闘争として展開された選挙戦の結果、宮崎は勝利した。
(六)
 市民の間にはかつてなく政治的な活気がみなぎった。市民集会なども各所で開かれた。
 市長選の半年後には、史上最高の賃上げをかちとった春闘があり、保革伯仲をめざした参議院選挙が闘われた。逆転はならなかったが保革差はさらに縮まった。
 神戸においては、さらに革新の勢いを募らせる出来事が続いた。74年9月、むつ市を母港と予定していた原子力船「むつ」が放射能漏れを起こし、いずれの港にも寄港を拒否され漂流するという事態が生じた。神戸港に対しても寄港許可申請があったが兵庫県も、神戸市も強い姿勢で拒否した。 さらにその直後、アメリカの議会公聴会におけるラロック退役海軍少将の証言内容が明らかにされた。ラロック提督の証言は「アメリカの艦艇で核積載能力をもつものは、たいがい核兵器を積載しており、日本の港に寄港する際に、それを降ろすことはない」というものであった。
 折から開会中であった神戸市議会において平田辰男市議(社会党)の質問に対して、宮崎市長は「米艦船については、核兵器を積載していないという明確な証明がないかぎり入港を拒否する」という態度表明を行った。非核神戸方式を確立するための作業が行われた後、75年3月18日、神戸市議会は満場一致、非核神戸方式を議決した。
※          ※          ※
 非核神戸方式を生み出した流れにはさまざまなものがあり、以上述べたことがすべてではない。ここに述べたものは大きな、重要な流れのひとつであった。
 
〈非核神戸方式を風化させないために。  今村 稔 中西裕三〉
「神戸空襲を記録する会」が空襲犠牲者慰霊祭
 神戸大空襲から70年。神戸の市街地が大空襲にあった3月17日にあわせ、第44回神戸空襲犠牲者合同慰霊祭が兵庫区の薬仙寺で営まれた。慰霊祭は、「神戸空襲を記録する会」(中田政子代表)によって1972年以降毎年開かれてきた。
 中田代表はあいさつで、神戸市中央区の大倉山公園に建立された神戸空襲慰霊碑への犠牲者刻銘の活動について、「空襲の犠牲者は8,000人以上と言われているが、まだ刻銘数は2,000人にも満たない」と、戦後70年の時を経て記録を残していくことの難しさを語り、「同じ過ちを繰り返さないために若い世代にこれからも空襲の惨禍をずっと伝えていく」と決意を述べた。
 その後、古川輝男さん(75歳)が空襲体験を語った。古川さん(当時5歳)は、家族で朝食を食べている時に空襲警報が鳴り響き、地域の人の誘導で家族みんなで防空壕に入ったが、その防空壕が焼夷弾に襲われた。兄は即死、防空壕の火の海から自分を救い出そうとした母は全身に大やけどを負った。焼夷弾が雨のように降る中を、親戚の家に家族で何とか逃げたが、行く道々、街中の人が防火用水に首を突っ込んで亡くなったり、横たわっていた。母は親戚の家で4日間寝ていたが、最後の夜「もう終わりかな」とつぶやいて亡くなった。
 古川さんは、今でもはっきりと残るつらい記憶を、少しずつ語りながら、「このような会を形づくっていくことによって平和が保たれる。私たちは思いを語ることが大事だ」と静かに訴えた。
(彩)
写真:大空襲のあった3月17日に営まれた第44回神戸空襲犠牲者合同慰霊祭=3月17日、神戸市

■神戸大空襲
 神戸とその周辺地域は1945年1月3日から終戦までの約8カ月間に、大小合わせて128回の空襲を受けた。とくに神戸の市街地が焼夷弾によるじゅうたん爆撃で大きな被害を受けた3月17日と6月5日の空襲、さらに川西航空機甲南工場を標的とした5月11日の戦略爆撃が神戸大空襲と呼ばれる。
 被害状況に関する公式記録は存在せず、具体的な数字ははっきりしていないが、少なくとも8,000人以上の市民が犠牲となり、15万人といわれる負傷者、焼失家屋15万戸、延べ65万人もの人々が家屋に被害を受けたといわれている。
労働法制規制「改革」の本質見誤るな 中野麻美弁護士が講演
尼崎地区労春闘学習会
 尼崎地区労が主催する「2015春闘学習会」が3月12日、尼崎市のリベルで開かれた。講師は、NPO派遣労働ネットワークの理事長も務める中野麻美弁護士。
 学習会にはひょうご労働法律センター共同代表の上原康夫弁護士も参加。労働法制の規制緩和に反対するたたかいを一緒に闘おうと連帯アピールがおくられた。
 中野弁護士は、「アベノミクスの規制『改革』〜これで産業社会は持続するか?!〜」と題して、安倍政権による労働分野の規制改革を斬った。
 以下、中野麻美弁護士の講演の要点を紹介する。
 規制改革には、@雇用管理区分「ジョブ型正社員」A労働時間規制緩和(8時間労働制の否定)B解雇規制の緩和(金銭解決制度)C労働者派遣制度の新構築の4つの柱がある。この4つの柱はそれぞれが関連し、正社員では包括無定量労務提供正社員(ホワイトカラーエグゼンプション)と短時間正社員、職種・地域限定の正社員を生み出す。
 間接雇用の労働者派遣法の改悪は雇用関係を商取引関係に変え、常用代替になり、派遣労働者の権利行使は極めて困難になる。
 安倍政権は、今国会で労働基準法の一部を改正し、「高度プロフェッショナル制度」の導入で労働時間規制の緩和をしようとしているが、これに対する労働組合側の「残業代ゼロ法」との表現は事の本質を見誤るのではないか。労働基準法は第32条で労働時間を規制した。それを36条で労使協定により長時間労働を許してきた。「残業代ゼロ法反対」という主張は残業代が支払われれば長時間労働が認められるということにならないか。これでは、労働者は本来8時間の労働、8時間の休息、8時間の自由時間で人間らしく生きるという原則を忘れている。
 安倍政権は年収が1076万円以上から導入しようとしているが、年収がいくらでも労働時間規制をなくすことは労働基準規制の根本が変えられ  ることであり、絶対に認めてはいけないことを肝に銘じるべきだ。長時間労働そのものを問題にする運動が求められる。
(小西)
写真:人間らしく生きる権利を根本からくつがえす8時間労働制の否定を許すなと訴える中野麻美弁護士=3月12日、尼崎市
集会、宣伝行動、自治体請願など
 「労働法制総破壊に反対する兵庫県共同アクション実行委員会(略称・労働法制ひょうごアクション)」は4月17日、神戸市内で第12回実行委員会を開き、今後の国会審議の焦点のひとつである労働者派遣法改悪や労働時間規制撤廃などの労働法制全面改悪に反対する運動の強化に向けて協議し、集会や県下一斉宣伝行動、地方議会での意見書採択などの取り組みを決めた。
 丹治初彦、羽柴修、上原康夫の3弁護士の呼びかけによる労働法制の改悪を考える市民集会が5月23日13時30分から神戸市中央区の生田文化会館で予定されている。上原弁護士は同実行委員会代表であり、集会への積極的な参加を確認した。
 この集会の成功に向けて5月14日を基準日に阪神尼崎駅など7ヵ所で戦後の労働法の大原則を根底から否定する大改悪を止めようと宣伝活動の取り組みも決めた。
 さらに県内の自治体議会での労働法制改悪に反対する意見書採択を求める取り組みについても議論し、自治体議会の選定や紹介議員の確保、請願団体のあり方や意見書の内容など時間を要することから9月議会に向けて準備を進めることを確認した。
(K)
平和憲法を守る高砂市民の会が総会と講演会
 平和憲法を守る高砂市民の会の第10回総会と講演会が3月15日、高砂公民館で開かれた。
 オープニングのギターユニット「奏音」の演奏の後、記念講演に移り、元自衛官の泥憲和さんが「集団的自衛権は他人のけんかを買うこと」の演題で講演した。
 そのなかで、自衛隊は国連決議に基づく残虐な兵器の廃絶などを率先して実行してきた、世界の軍隊の中でもユニークな存在であり、専守防衛に徹して他国からの侵略を抑止し、日本の平和と民主主義を守るために存在すると信じているのに、安倍首相がこれを潰そうとしている、と鋭く批判。この動きを元高級官僚さえ公然と批判するようになってきていることにも触れた。さらに、政府やマスメディアが巧妙に国民の不安を煽るように真相を歪めて報道していることも具体的な事例をあげて明かした。最後に、憲法9条のもつ“平和力”について、フィリピン・ミンダナオ島における政府軍とバンサモロ解放戦線との50年間にわたる内戦を自衛隊によらず民間の力で和平実現に導いた事例を紹介し、この日本の“平和力”を失くさせないために安倍首相の暴走を止めなければならないと訴えた。
(嶋)
写真:元自衛官の泥憲和さんが「集団的自衛権は他人のけんかを買うこと」と安倍政権の暴走を批判した=3月15日、高砂市
インフォメーション

戦後70年。今こそ9条! −許すな!壊憲国民投票−

憲法68年 5.3兵庫憲法集会
  • 5月3日(日)13時会場 13時30分開会
  • 神戸市勤労会館7階大ホール
  • 講演「憲法と沖縄問題―日米合作の植民地」
    屋良朝博さん(元沖縄タイムス記者)
  • 500円

―あれから70年― 戦後70年特別企画

内橋克人氏講演会 「戦後70年を抱きしめて」

〜「再びの暗い時代」を許さない〜

  • 5月17日(日)13時〜15時30分
  • 神戸文化ホール・中ホール
  • 参加費 500円
  • 主催 神戸空襲を記録する会
  • 参加申込み 078-821-5878 へFAXで