「新社会兵庫」 10月23日号
- デンマークの高齢者組織エルドラセイエンは、約65万人(デンマーク人口の1割を超す)の組織。政党・政策に関係なく、民族・宗教に中立であればメンバーになれる全国的な自主運営組織だ。社会的な関りを各人近いところで起こす、法律や現在の問題を理解し、実際に行動を起こして30年以上の活動が続く。この組織を無視して高齢者政策をつくることはどの政党もできない▼国の最も大切な資源は「人」と位置付けるデンマークは、教育に投資し、良い労働環境を作り、医療や福祉を整備する政策を展開してきたが、それを追求する力は「税は出そう、我々自身のために。その代り政治をしっかりチェックするぞ」という、人々の姿勢にある▼社会の中で自分らしく豊かに生きる力を身に着けることを基本とした教育は、100年を超える積み重ねの中で全世代に浸透している。社会を良くすることが一人一人の幸せに繋がり、だからこそ意見を出し活動する。政治もその一環にすぎない。18歳の自治体議員もいれば高齢者を代表する議員もいる。もちろん約半数は女性だ▼統一地方選まで半年を切った。明日を創るのは自分たち自身だ。代表を自治体議会に送り出し、明日に繋ぐ意見を出そう。
- 沖縄知事選 差別・屈辱への怒りの回答
沖縄の怒りを全国の怒りへ -
玉城デニーさんの圧勝で新基地建設反対の意志が示された沖縄県知事選
「辺野古に新基地を造らせない」と全力で取り組みを進めてきた翁長雄志知事が8月8日に急逝され、当初11月下旬に予定されていた沖縄県知事選挙は9月30日投開票で行われ、辺野古新基地建設反対を訴えた玉城デニー前衆議院議員が沖縄県知事選過去最多となる39万6632票を獲得、安倍政権の全面支援を受けた佐喜真淳前宜野湾市長に約8万票の大差をつけて圧勝した。
投票箱を閉じると同時に当確の情報が入ってきた。激戦が伝えられる中ですぐには信じられなかったが、次々に伝えられる当確の情報に喜びをかみしめた。自然と涙が出た。この間、悔し涙ばかりを流してきたが、本当にうれしかった。この大差の勝利は、これまで沖縄の人たちが受けてきた屈辱とも言える扱いに対する怒りの答えであることは明らかだ。
選挙期間中、政府・自民党は、閣僚や党幹部が現地入りし、「カネ」で米軍基地を受け入れることを迫った。しかし、沖縄地上戦や銃剣とブルドーザーによる土地接収などの悲劇を経験してきた沖縄はこれを拒否した。「アメ」を配れば住民を納得させることができると考えている政府の傲慢さに対し、良識ある沖縄県民が「ノー」を突きつける結果となった。
争点隠し・デマ拡散 異常な選挙の中で若者がポジティブ・キャンペーンで対抗
今回の知事選の特徴は、佐喜真陣営が名護市長選挙、新潟県知事選挙と同様に争点隠しを徹底し、辺野古問題には一切触れないという選挙戦略をとったことである。そして、「携帯電話料金を4割削減」に象徴される、県民を愚弄した公約を掲げ、重要な基地問題に向き合うことはなかった。また、ネット上では、玉城さんに対する誹謗中傷やデマが拡散され、公明党の国会議員までもが真意不明の情報を拡散した。玉城さんへのいわれのない罵詈雑言は読むに堪えないものであった。
加えて、期日前投票への対応も異常であった。支持する企業や創価学会による期日前投票への呼びかけは凄まじく、各企業へは期日前投票者の報告書の提出や候補者名を書いた投票用紙の写真撮影まで求めていたことが明らかとなっている。まさしく投票の自由を否定する行動が行われた。
こうした相手陣営の動きに対し、毅然とした対応が取られ、ネガティブ・キャンペーンに対してポジティブ・キャンペーンとしてSNSを最大限に活かした取り組みが行われ、政策や候補者の人柄など正しい情報がネット上を駆け巡った。
翁長前知事の遺志を継ぎ、「新時代沖縄」を作ろうと呼びかけたデニーさんのキャッチフレーズに呼応するように若者たちが「明るく」選挙戦を戦ったことが勝利の要因のひとつと言える。
私自身も現地に赴き感じたことは、前回知事選挙より若い人たちの反応が良かったことである。街頭行動には手を振り、クラクションで応える若い世代が多く、選対にも多くの若者が集まり、明るく活気ある選挙運動が進められていた。そして、こうした若者たちをリードし支えるオール沖縄の「先輩たち」の姿はまさしく「新時代沖縄」の姿を象徴するかのようであった。
日本政府へのマグマが噴き出した勝利
9月22日の集会に参加した翁長前知事の妻、樹子さんは、「政府の権力をすべて行使して、私たち沖縄県民をまるで愚弄するように押しつぶそうとしている」と怒りを露わにし、「私たちウチナーンチュの心の中を、すべてさらけ出してでも、マグマを噴き出させてでも、必ず勝利を勝ち取りましょう」と力強く訴えた。
この言葉に象徴されるように、弔い合戦としてではなく、「基地のない平和な島・沖縄」を作り出すために戦い、まさしく「オール沖縄」がマグマを噴き出した勝利と言える。
普天間の返還合意から23年。沖縄県民は国策によって分断され、地域社会は破壊されてきた。普天間から辺野古に基地が移ったからといって危険性が除去されるわけがない。ただ被害に遭う住民が変わるだけである。国策によって地域住民が犠牲になることはあってはならない。今回の知事選の結果を受けて、改めて民主主義が問われることになる。
私たちは、沖縄の問題としてではなく、平和に生きることを高らかに謳った平和憲法を持つ国の人間として基地全面撤去のたたかいを進めていかなければならない。翁長前知事の「甘えているのは沖縄ですか、それとも本土ですか」との問いかけに対し、沖縄の「怒り」を日本全土の「怒り」に変え、新基地建設反対に全力をあげよう。
森 哲二(平和運動研究会)
- 危機管理現場の労働者
- 2018年は、どれほど災害が来るのかというほど風水害に見舞われた。この原稿を書いているのは、近畿に台風24号が迫り来る9月30日。ニュースでは台風25号が発生したとある。来週も災害対応で土日が潰れてしまうのかと思うと嫌になる。自治体現場では台風の前も後も慌しく担当部局は動かなくてはならない。
佐用町の水害(2009年・台風9号)では当時、防災の担当者が兼務で実質1名となっていなかった。その教訓から現在は複数名の体制で防災行政を担う。わが町でも危機管理課はあるものの、防災の担当は実質1人。いざ風水害が起こると課員4名が気象庁や国土交通省のホームページから様々な情報を収集して、職員、消防団の参集体制を組む。風水害のレベルにより職員配置は増やしていくものの、土のう要請、避難所への避難、道路の陥没、浸水の連絡など電話がどんどん鳴る。短時間の勤務なら良いのだが、台風の進路によっては泊まり勤務も発生する。職員数が少ないので、交替勤務という発想はない。担当部局の職員は疲労困憊だ。
さて、台風の際、臨時職員は時間が来れば帰る。最低賃金を少し超えるような時給で雇用されているため、しかたないと思う反面、同じ役場で働く労働者として「災害対応は何かできることありますか?」の一声があっても良いのではないかと思う時がある。自身がこのような気持ちになるのは、正規と非正規に労働者が分断されているという社会的な構図があるからだ。非正規が正規並みの賃金・労働条件になればある程度は解決されるのであろうが、経営者側は非正規に近づけたがるであろう。労働者は経済学の勉強をして賃金論を身につけてユニオン運動はじめ様々な場面でたたかうしかない。
北川 寿一(はりまユニオン)
長く当コーナーの担当もしていただきながら、この間、闘病中だったはりまユニオン書記長の塩谷明さんが8月に亡くなられました。謹んでご冥福をお祈り致しします。【編集部】
- データの背景への視点
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仕事の中で、このようなデータが欲しいと言われ、統計資料やデータの作成をしている際などにふと思うことがある。本当に大切なものはデータに表れている部分ではなくて、数字や文字では表せない部分なのではないかと。ひどく感じる時には、そもそもこんな資料は意味無いよ、と思うことすらもある。私が人と向き合う仕事をしている関係もあり、とくに人にまつわるデータに関しては、それを強く感じている。
統計上の人のカウントが「1人」という数字も、「1人」とカウントされる背景や中の質は全く違っている。それでも、同じ「1人」として表記され、まとめられてしまう。割合での表記ともなれば、さらに不透明になる。大切なことは本来、個人の特性に応じたことができたか、寄り添うことができたか、どのくらい他に影響を及ぼすかといった性質としてあげられることであるはずだ。
さらに、会議などで数字が悪いから改善をしなければならないと議論になり、成果の評価や判断 が表面的な数字の上だけで早急になされてしまったりする。例えば、モノを作る事業があるとして、 粗悪品を10個作った方と良品を5個作った方があれば、前者が数の上で評価されるのである。最悪では、良品を作る方の事業を取り潰されてしまうこともある。
もちろん、具体的なデータというものは状況を把握する上で大事であるし、仕事柄、そのことを人に伝えることも多い。だが、事務仕事の中ではあまりにもそれに捕らわれすぎている現状があるだろう。数値の裏側の膨大な背景を話すとしても、直接「数字の中身」に触れなかった立場からする と、まとめて理解したいという気持ちが強く、統計資料の方が説得力を持ってしまうのである。経験の無い事であれば、そのようになるのは無理もないことではあるが、なんとも歯がゆい。
数字を頑なに追いかけて仕事をしなければならないとなると、どうしても無理やり数字を作るための仕事になってしまう。経過を無視し、結果だけを出して何でも良いからカウントアップしようとする。 いわゆる「数字のマジック」というやつも使うようになる。そして、意味の無い数字ができあがる。それは評価されるので、その仕事が正しいことになる。だが、その仕事は作られた空虚である。
数字が悪ければ改善しなくていいというわけではない。ただ、無理やりの改善にならないために は長い目で見られる環境と、データを見る人は、データを作った人とそのデータに直接接する人に 寄り添う器量がいると思う。逆に数字が良かったとしても、それで良いと思ってしまうこともダメだ。 私個人としては立場がどうであれ、そのような視点を忘れないようにしたいものだ。
(ふくちゃん/33歳)
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