「新社会兵庫」 8月9日号
- 開幕を迎えたリオ五輪、ドーピング問題が騒がしい▼今を去るゥン十年前、高校生の私達は、医者の息子だった級友にそそのかされ、試験前にはグルタミン酸ソーダを混ぜた刻みネギを食べていた。脳の働きが活性化されると「期待」していた。ドーピングの真似事だったろうか▼五輪のドーピング問題には国家のよからぬ陰が見え隠れする。薬物使用ではないにしても、選手に対する国家の異常なハッパかけは「精神的」ドーピングと言ってもよい▼選手の技能が国家の権威を代表しているのではないのに「金メダルは最低×個は獲ってこい」。スポーツ界にいつも胡散臭い空気を振りまく森某は、「神の国発言」の反省どこ吹く風と「君が代を歌えない奴は日本選手の資格なし」と放言▼五輪と話は別になるが、甲子園の高校野球が話題となる季節であるが、気になる言葉も多い。出場校を称える言葉として「文武両道」が使われる。体育という言葉が使われずに封建時代の支配階級の規範である「武」とはなぜか。甲子園を球児憧れの地と表現するのはいいとしても「聖地」というのはおかしくはないか。スポーツは大衆に人気があるだけに気をつけておかないと、わずかの隙間から頭を冷え込ませる風が吹く。
- 高江・辺野古
沖縄の民意を蹂躙するな、安倍政権の蛮行許さない
- 自然豊かなやんばるの森が広がる沖縄県東村高江が異常事態だ。人口わずか150人の地域に東京、千葉、福岡などの機動隊500人、警察官1000人が動員され、県道を封鎖し、7月22日には米軍ヘリパット建設に反対する住民の暴力的な排除が行われた。
「これが国のやり方か」 厳しい結果に終わった参議院選挙ではあったが、沖縄では自民党の現職閣僚に10万票の大差をつけ、オール沖縄が推す伊波洋一さんが当選した。これによって、沖縄では衆参の全選挙区が「新基地建設反対」を訴える野党議員によって占められた。沖縄の民意が「基地はいらない」と再び示されることとなったが、翌日、米軍北部訓練場のゲート前に機動隊が投入され、建設工事に使う資材の運搬が強行された。選挙によって示された民意を無視した強行に「これが国のやり方か」と怒りに震える翁長知事の姿が沖縄県民の思いを現している。
高江で何が起きているのか
1995年9月4日に起きた米兵による少女暴行事件は、沖縄に大きな怒りのうねりを作りだし、県内米軍施設の一部返還が決められた。しかし、日米両政府が承認した日米特別行動委員会(SACO)最終報告では無条件の「返還」ではなく、移設条件がつけられた。
普天間飛行場の返還では、「代替施設の建設を前提に、5年から7年以内の普天間基地の移設」が定められ、代替地として名護市辺野古があげられ、新基地建設が目論まれた。しかし、地元住民の反対運動が全国の支援も得て粘り強く闘われ、基地建設を阻止してきた。
高江についても、沖縄本島北部の米軍北部訓練場の「返還合意」の交換条件として、高江に6か所のヘリパッドを建設することとされた。高江住民は「ヘリパッドいらない住民の会」を組織して反対運動を続けてきたが、政府の強権的なやり方で2か所の建設が強行された。しかし、座り込みなど粘り強いたたかいが続けられるなか、以降の工事は中断されてきた。東村にはすでに15か所のヘリパッドがあり、昼夜を問わず訓練が行われている。最近では、オスプレイの訓練が頻繁に行われ、騒音による生活破壊は凄まじい状態となっている。オスプレイ配備予定の辺野古新基地建設が強行されれば両施設間をオスプレイが日常的に行き交うことは容易に想像でき、ますます住民生活は破壊されることになる。
沖縄は未来のために抗い続ける 7月19日、高江地区を通る県道70号線では検問が始まり、沖縄防衛局は市民や車両の強制排除方針を決定、22日には「強制排除」をするとの情報が流されるなか、基地の県内移設に反対する県民会議 、「ヘリパッドいらない住民の会」などの呼びかけで「オスプレイ・パッド建設阻止緊急集会」が開かれ、急な呼びかけにもかかわらず1600人が結集した。
壇上に立った人たちからは、口々に政府への怒りがぶつけられた。「参院選の翌日から、まるで見計らったように慌ただしく国が動き出した。県民を挑発しているとしか思えない。これは安倍内閣と県民全体のたたかいだ」「ハワイではコウモリの保護を目的にオスプレイの訓練が中止に追い込まれた。しかし、沖縄では生身の人間が声を上げても一顧だにされない。我々はコウモリ以下なのか」「私は普通の暮らしをしたいのだと訴えているだけなんです。なのに、なぜ、こんな私たちに向けて数百人もの機動隊が配備されるのでしょうか。私たちはテロリストですか?」
同時間には沖縄県議会は、高江の工事中止を求める意見書を賛成多数で可決した(自民党は反対、公明と維新は退席)。
何度も何度も沖縄の民意は無視されてきたが、しかしそれでも沖縄は未来のために抗い続ける。沖縄は民主主義を体現し続けている。
沖縄を蹂躙する安倍政権 7月22日は、沖縄を蹂躙する日となった。高江では、警察権力によって10時間にわたって県道を封鎖し、座り込みを行う住民の暴力的排除が強行され、反対運動のテントや車両が撤去された。
また一方、政府は、名護市辺野古の埋め立て承認取消処分に対する国の是正指示に沖縄県が応じないのは違法だとして「不作為の違法確認訴訟」を提起した。代執行訴訟の和解成立から4か月で再び法廷闘争となった。県は、まともな協議をすることなく提訴を強行した国に対して徹底抗戦していく姿勢である。 同じ日に多くの県民が反対する辺野古、高江での新基地建設を強行する政府の姿は異常である。日本の民主主義は沖縄には適用されないのか。まさに日本全体で議論を巻き起こさなければ、沖縄では政府によって「植民地的」扱いが続けられることになる。
沖縄を孤立させるな フェイスブックなどのSNSで現地の映像が刻々と流れ、権力による横暴が伝えられた。映像には多くの沖縄の友人たちが必死の抵抗を続けている姿が映し出され、自然と涙があふれ出てきた。絶対に許してはいけない蛮行が行われている映像に怒りで身体が震える。多くの仲間が同じ思いで沖縄・高江を注視したのではないか。でも、まだまだ沖縄とともに闘っているとは言えない。政府が沖縄を踏みにじり続けるなら、私たちは沖縄とともに闘い続けなければならない。
森 哲二(平和運動研究会)
- ハローワークの求人票も“労働契約”
- 今回はたんばユニオンの闘いの報告をする。
たんばユニオンは武庫川ユニオンたんば支部として、09年3月に結成、篠山市、丹波市を中心に相談活動を継続してきた。
相談者のMさんは、福知山のハローワークを通して丹波市森林組合と雇用契約を締結。ハローワークの求人票には「雇用期間12カ月契約で契約更新の可能性あり」、「加入保険:雇用・労災・健康・厚生」と表示されていた。Mさんは雇用契約書の締結を求めたところ、雇用期間が3月22日から4月30日までの「臨時雇用契約書」が提示された。求人票には社会保険(雇用・労災・健康・厚生)に加入することになっていたが森林組合は社会保険の加入も拒否した。ハローワークに指導を求めたところ、森林組合は「6月末が決算なので、6月末までは2カ月ごとの契約をするが7月から1年の契約となる」と説明したので、Mさんは契約書にサインした。社会保険の加入手続きも行われた。
ところが、森林組合は4月20日から5月中旬までの休業を提案。Mさんは休業手当を要求したところ、解雇通告がなされ、同時に5月1日から5月31日までの臨時雇用契約書を渡されサインを求められた。解雇理由を求めると、「解雇予告通知書」「解雇理由証明書」が渡された。解雇理由として、「協調性の欠如などで……従業員に大きな労働災害を引き起こす可能性が高くなる」などと記されていた。Mさんはいろいろと相談し、結局、たんばユニオンにたどり着いた。団体交渉で森林組合は、一旦解雇は撤回したが今後は契約期間が3カ月であるので6月末で雇止めであるとした。ユニオンは、「雇用期限は少なくともハローワークの求人票の12カ月契約だ」と主張。解雇を強行するなら闘い抜くことを宣言した。Mさんの意志も固かった。
紆余曲折はあったが、森林組合も面接時に詳しい説明がなかったので、ハローワークの求人票が雇用期間の契約であることを認めた。ただし、職場には戻せないと契約期間満了までの賃金相当分の支払いで妥結することにした。ハローワークの求人票も権利の手掛かりであることを明らかにした闘いであった。
(たんばユニオン N)
- 定年を前にして
2017年、来年の3月で定年を迎えます。養護施設で10年、裁判闘争が13年、知的障害者施設で17年です。40年前、働き続ける気持など少しもなかった私が定年を迎え、まだ嘱託で働こうとしています。
高校の時からの夢であった養護施設での保母(現保育士)としての生活、1年1年働くことが楽しくてあっという間に5〜6年が経ちました。そして、その頃から働くことの意味、生きていく意味を考えることが増えていき、自分の知らなかった世界を周りの仲間に教えてもらいました。そういう中での裁判闘争。何も分からないまま怒りで裁判に突入した私たちでしたが、その私たちを支えてくれたのも周りの仲間たちでした。13年という長い裁判の間、物資販売のためのオルグに自分の年休を使って一緒に回ってくれた仲間、裁判に毎回休みをとって傍聴に来てくれた仲間、アルバイトの仲介をしてくれた仲間、私たちの裁判は周りの仲間なしでは続けていくことはできませんでした。そして知的障害者施設に復帰してからは、鳴り物入りで帰った物覚えの悪いおばさんたちを一緒に働く若い仲間が助けてくれました。いったいどれだけ働くことができるのか、何日働けるのか、自信もなく不安で働き始めましたが、あっという間に定年を目の前に控えるようになりました。
私が生きてきた60年の人生、この神戸の地で生きてきた時間の方が長くなりました。20才から40年、私の人生のほとんどがつまっています。結婚、出産、離婚、病気と本当にいろんなことがありました。その時々の出来事にいろんな人が関わってくれ、私はこの神戸で生活できたと思っています。
そして子どもも大学を卒業し、やっとこれからは定年まで自分のためにと思っていた矢先、今の世の中2人に1人がなるといわれている「ガン」を患ってしまいました。風邪ひとつひかない元気者で通っていた私にとっては青天の霹靂。健康が唯一の取り柄だった私は少しへこみましたが、仕事をしていると病気のことばかり考えている余裕はありませんでした。そんな私に「自分の体でしょ。一番に考えなさい」と怒ってくれた職場の看護師。「他の病院をもう一度受診してみたら」と言ってくれた仲間。多くの仲間に心配をかけ、また支えてもらいました。無事に手術も終わり、職場に復帰すると今度は一緒に働く仲間が助けてくれて働いてこられました。
人間は一人では生きていけないといいますが、本当にその通りです。私の人生は周りの仲間に助けられ、支えられた人生だったと思います。そして病気になり「死」ということについて初めて考えました。1年先か10年先か20年先か分からないけれど、人間には終わりが来るということです。それがいつか分からないからその日その日を充実させて生きていかないといけないと思うようになりました。
定年を目の前にして、今迄の人生、これからの人生を考え、60才からは今まで私を支えてくれた仲間にいろんなことを返していければと考えています。病気と付き合いながら、これからも多くの仲間とともに頑張って生きていきたいと思います。
(松永)
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