「新社会兵庫」 1月18日号
 今年は卯年。初夢に兎と亀の競争を見たという人の話。負けた兎は、口惜しがりもせず、反省もせずに「一番にならなきゃいけないんでしょうか」とうそぶいたという▼このご仁、イソップのパロディが好きで、以前にもアリとキリギリスの話をしてくれた。冬に困窮したキリギリスは、夏の暑さの中で働いていたアリを思い出し、助けを乞うことにした。ようやく訪ねあてたアリの家では、夏の無理がたたって、全員が過労死していたという▼兎は古来より人間の生活に最も近い動物であったのであろう。民話や童謡に登場する回数は、調べてみればおそらくカラスを抜いて一番であろう。月の神様にわが身を捧げた兎のように、美しい自己犠牲の話もあるが、総じて兎には「脱兎のごとく」とか「狡兎死して…」と言われるように油断できないという雰囲気がつきまとう▼因幡の白兎も、もとはといえばワニザメを欺いたところから始まっているし、正義の執行者であるはずのカチカチ山の兎も、悪狸を懲らしめるやり方は、結構残忍である。木の株に頭をぶつけた間抜けの兎でさえ、人間の人生を狂わせている▼卯年だ、跳躍だ、飛躍だ、と浮かれずに、我が身の力で前進を志すことにしよう。
2011年・年頭に思う
「あきらめず、つながって・・・」
ひょうご元教職員護憲ネット・代表委員 佐藤三郎
 「社会は、学校は、雑木林でありたい」「命令しない、命令されない 差別しない、差別されない 強制しない、強制されない―そんな人間関係を結んでいきたい」。河原井純子さんは、「子どもたち、青年たち」と「日の丸・君が代」問題を考え、対話していく出発として「不起立」を続け、停職6カ月を含む数度の処分を受け、現在8つの裁判を抱えながら全国行脚を続けている。
 2010年7月28日から5日間、大阪と兵庫の10箇所で、河原井さんを囲む対話集会が行われ、250名余の人達が集まった。「学校は雑木林であってほしい。樹木の一本一本が個を生き、総体として生物の多様性を育む雑木林。社会もそうあってほしい=B彼女は悲壮感も気負いもなく、ゆっくりと歌う様に語り、その声が静かに染み通っていく……たくさんの参加者と共に考えた熱い夏の一刻でした」。こんな声が多く寄せられた。
 私たちの周りには嫌なこと、腹立たしいことが、多すぎる。不義・不正の実態を正確に掴み、それらをもたらす仕組み、それらを正していく道筋を考えることが必要なことは、誰しも頭では分かっている。身近なところで多くの貴重な講演・懇談・学習の場が設けられているが、なかなか人が集まらないのが実情である。しかし、今回の雑木林行脚では、5日、10回にわたる対話集会を呼びかけた河原井さん、それに応えて高槻から高砂に到る各地で場の設定に尽力してくれた十数名の賛同人がいたからこそ、250名が集うことができた。
 「あきらめず」に闘い続ける人がいて、それに「つながる」人がいて、「対話」があり、「心が通い合う」ことが出来れば、「元気になれる」。雑木林行脚は、このことを教えてくれた。昨年12月19日、大阪・中之島公会堂で開催された「これでええんか!橋下『教育改革』 新勤評を許さない全国集会」には500名以上が集まり、兵庫からも夏の雑木林集会に尽力した人たちが多数出席し、東京から駆けつけた河原井さんを囲み再会を喜び合った。
 2006年の教育基本法改悪の動きを黙過できず、「ひょうご元教職員ネット」を立ち上げたが、時すでに遅し。体制派の目指す憲法改悪を許さぬために、「元教護憲ネット」の活動(対話集会とニュース発行)と、京阪神で毎月開催される数十件の各種市民活動の紹介・普及と市民団体の「つながり」を願い、「市民活動掲示板」のメーリングリストへの送信等を始めて4年になる。
 共に取り組む仲間のほとんどは60〜70代。私自身、80を目前にして、次々に出くわす身体の故障と、「なんぼやっても変わらんなー」との思いで、しんどくなったり、思い直したりの生活が続いている。しかし、「つながっている」仲間がいる限り、いつまでやれるか分からないけれども、もうしばらく頑張ってみようと思っている。
原点を忘れず丁寧な運動を
兵庫県職労中央執行委員長 志水圭助
 県職労本部の執行委員になって4年余。昨年8月から執行委員長を担うことになった。公務員バッシングに圧されているからではないと思いながらも、日々の業務に忙殺され、組合員や職場実態に依拠した方針が提起できているのかと自問自答する時間が年々増えている。自らの思想性が問われているのであろう。
 私の労働運動の出発点は、横暴な態度を改めない管理職の理不尽な行為を容認する「職場風土」に反発し、正義感だけで行動を起こした20代に遡る。がむしゃらに矛盾の改善を求め続けた結果、「職場に労働組合を」のスローガンを掲げる県職労の下で、徐々に組合員の信頼を得ることができ、その運動は組織内に一定の広がりを見せることとなった。
 今日の日本社会は、声に出して「おかしいことをおかしい」と素直に言えない、危険な方向に進んでいる。この「保守化」傾向は、労働環境にも影を落とし、殺伐とした職場にはあきらめと閉塞感が蔓延し、労働組合への期待は低下している。公務職場においても同様で、その結果、構造改革路線が根付き、賃金抑制や定数削減に拍車がかかっている。
 このような労働者の団結を阻害する要因を放置しておけば、資本側の横暴がますます増幅していくことはこれまでの歴史が証明している。
 今こそ、組織労働者に課せられた社会的役割・責任は大きなものがあり、その中における私たち自治体労働者の任務は重い。
 この情勢を十分認識し、職場改善闘争の積み重ねが、社会構造の変革につながっていく「社会的法則」に確信を持って、原点を忘れず、自信をもって運動を進めていきたい。
社会運動と政治をつなぐ
神戸ワーカーズユニオン委員長・神戸市会議員 小林るみ子
 何年経っても忘れられません。あの日、私は自転車で灘区の南部方面に下っていきました。「これは夢なんだろうか、現実なんだろうか」……、私は道と言える道がなくなっている街中を涙を流しながら歩きました。「なぜ貧乏人だけがこんな目に遭わないかんのや」。突然襲った地震という天災の怖さよりも、その悔しさがいつの間にか涙を怒りに変えていたことを思い出します。
 阪神淡路大震災から16年。わずか20秒の揺れが6434人という尊い命を一瞬のうちに奪い、多くの人の生活基盤をも奪いました。「パートだから」「アルバイトだから」と、はがき1枚で解雇されていった多くの非正規労働者。会社や企業のあまりの勝手さに強い憤りを覚えました。強い者は生き残れる、弱い者は切り捨てられていく……。私には、このことがどうしても許せませんでした。
 今在る私の出発点は、やはりあの震災≠ノあったのだと思います。
 私は、震災後の選挙で落選しました。落選というレッテルは自らを否定されたように思えるものです。そこから立ち上がるためにも、立ち直るためにも、何か必死に取り組み続けなければならない。そうしていないと、その時期(とき)の自分を支え続けることができなかったからなのかもしれません。
 私は、当時、元気に闘っていたユニオンに加入しました。ケーキ屋のパート店員や化学関連労働組合協議会のパート専従の仕事に携わりながら、「被災者生活再建支援法」実現運動、仮設住宅労働実態調査、被災地メーデーなどに関わる中で、いつの間にかユニオン運動にのめり込んでいきました。そして、それは、「神戸空港の是非を問う住民投票条例」制定運動へとつながっていったのです。
 今、2期目の議員の任期を終えようとしています。この間、震災≠機にユニオン運動をバネにして充実した日々を送ってきました。しかし、「人間≠ェ、命≠ェ、大事にされていない!」―このことを思うたびに、議員として、ユニオンの組合員として、まだまだやらなければならないことがあるのだと、心の底から思います。
 神戸市は今、神戸空港問題をはじめとした課題が山積しています。これらの課題の解決のために、ユニオン運動をはじめとした様々な社会運動と政治をつないでいくこと、埋もれてしまいがちな小さな声を掘り出して社会問題にしていくこと―それが私たち新社会党の議員に課せられている責務だと思っています。
 みなさんのお力で、引きつづき議員としての活動の場を作っていただきますよう、ご支援よろしくお願いします。
勤労大衆自らが闘うことだ
新社会党書記長・松枝佳宏
戦争は権力の手によってつくられていく
 世の中、いったいどうなっているのだろう。政治も、経済も、そして平和さえ、いつどんなことが起こっても不思議ではない情勢が続いている。地球環境破壊に自然の反逆もある。
 尖閣諸島をめぐる日中対立、そして朝鮮半島の緊張、米空母ジョージ・ワシントンを中心とした日米韓の合同軍事演習(洋上の巨大軍事基地の登場)。「弱腰」外交と非難するマスコミに煽られ、「戦争になるのか」と真剣に交わす人々の会話に、「あー、戦争はこうして権力の手によって作られていく」と考える。
 そして、『日本国憲法』前文の一節「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」を思い出し、憲法第9条(戦争の放棄)をかみしめる。主権者・国民は「政府の行為」を座視するな、と警告しているのである。
 これだけ国境を越えて経済交流・人的交流が進んでいる時、戦争という事態(国同士の交戦)はあるまいと思うが、突発的な事件がどう発展するか分かったものではない。今日の政治状況は危険である。
 いずれにしても日米の「死の商人」達は、ほくそ笑んでいることだろう。「防衛大綱」は自衛隊の空・海を軸に機動力を高めるという。装備の近代化・高度化である。中期防衛力整備計画によると、今年度から5年間で23兆4900億円を投じる。武器輸出3原則の見直し、原発の輸出、そして思いやり予算の継続など、表に出るだけでもこの調子である。外交・防衛は機密、そして関連予算もあるから、大盤振る舞いである。私たちは「専守防衛」「抑止力」の裏に、「死の商人」の高笑いがあることを忘れてはならない。

菅政権から「人」が消え、財界と米国が登場
 逆にどうだろうか。例えば、子ども手当。「財源がない」「ばらまきだ」と大騒ぎ。後期高齢者医療制度はどうなったのか。一昔前、老人医療は無料であったことは忘れられている。極めつけは、予算編成に見る「法人税5%切り下げ」「年金支給額切り下げ」という両極である。年金の切り下げは世代間の助け合いという。では法人税の切り下げは、雇用、賃金の労使間助け合いをもたらすのであろうか。財界は「資本主義のシステムの中で約束はしない」と冷たい。
 民主党政権が掲げた「コンクリートから人へ」の「人」が消えてなくなり、かわって財界とアメリカが登場した。そして権力という魔物に取りつかれた菅政権は、部分連合にせよ、大連立にせよ、保守派を糾合し、@東アジアの緊張を利用した日米韓軍事同盟の深化、A消費税増税・貿易自由化(TPP関税完全撤廃)へ突っ走る「危機管理内閣」をもくろんでいる。貿易の自由化、確かに大企業と経営者・株主は喜ぶだろう。しかし、この間莫大な税金の投入で銀行や大企業は業績を回復したが、労働者の賃金は上がったか。雇用が生まれたか。関税撤廃によって農・漁民は切り捨てられ、労働者は新興国労働者との競争にさらされ、さらに厳しい労働を強いられることだけは確かである。
 「競争」と「自己責任」。今、これまでのあらゆる基準が葬り去られようとしている。労働基準然り、春闘がつぶれ、人事院勧告制度がつぶれ、賃金水準も、最低賃金もつぶれた。
 そればかりではない。例えば、「皆健保」と言われた健康保険が、県単位となり、「弱小」県は赤字を抱え、負担は住民に転嫁され、地域医療、救急医寮は後退に次ぐ後退である。医療費が高く、横文字の民間保険会社が闊歩する。そして医療費抑制の名のもとに、「貧乏人」は病院から排除される。これが社保庁7分割・民営化の一方の現実である。また、消えた年金問題は解決したのか、誰でもが生活できる年金は前進したのか。
 例えば、待機児童の解消という名で保育所の設置基準が緩和される。園庭のない保育所、狭いスペース、子どもの環境は、保育士の労働条件は……。こんな例は無数にある。子どもが悪いのではない。親が悪いのでもない。もちろん従事者が悪いのではない。子どもたちが真に「社会の宝」ならば、子育てから高等教育まで、国が最低基準を守ればよいのである。

いまや明白な矛盾の拡大と階級対立の激化
 今や、だれの目にもはっきりしてきた。一握りのほくそ笑むグループと、その下で呻吟するグループが存在する。政権交代は、自公政権に対する生活・労働の現場からの異議申し立てであった。しかし、政権交代は政治に期待するだけでなく、勤労大衆自身が自らを組織し、要求し、闘わない限り、自らの地位を守ることはできないことも明らかにした。
 政権交代から1年余、期待は政治不信と化している。競争と自己責任の社会の中で連帯の輪を広げるのは容易ではない。だが、生活と労働の現場では矛盾が再生産され、そして拡大することは明らかである。諦められない、「異議申し立て」が同じ仲間として共感を持つ情勢でもある。まず自治体選で前進しよう。
30年以上前の履歴書
 職場の大掃除をしていたら30年以上前に出した私の履歴書が出てきた。今と違い、ほっそりとして髪をきれいにまいた、就職することに期待と不安を持った顔の写真が貼ってあった。
 私は高校時代から養護施設の保母(現在の保育士)になりたくてこの道を選んだ。短大時代、実習に行ったS施設の主任保母さんから「卒業したらうちへ来ませんか?」とお呼びがかかった。希望の養護施設で働けると私は二つ返事で「お願いします」と答えた。しかし、2年生の秋になり、友人たちがつぎつぎと就職が決まっていくのに、そのS施設からは何の連絡もなかった。電話を入れ、返ってきた返事に唖然…。「今年はどなたも辞めなかったので、募集していません」。毎年、誰かが辞めている大変な施設が私の就職する年に限って誰も辞めなかったとは。私は就職担当の先生より先に福祉概論の先生のところへ走っていた。その先生が紹介してくれたのが、K寮だ。 その時に出した履歴書。この履歴書が私の人生を変えたのだと思う。
 その頃の私は、何年か仕事をし、田舎へ帰って見合いでもして結婚…、そんな未来を描いていた。それが、私が働き出した年に労働組合ができ、田舎者の私は、この時初めて世の中の仕組みを教えてもらった。一つ一つの言葉が新鮮で面白かった。それでも働き続ける気持ちはなく、ただ今年たくさん辞めたから今辞めたらみんなが困るかなと、2〜3年で辞める予定がD年になり、10年に。
 そうして働き続ける中で結婚した。その時は、子どもを2人ぐらい産んで、定年まで働いて…、と思っていた。
 その次に、私の人生設計の中で一番予定外のことが起こった。「整理解雇」だ。今また裁判するかと聞かれたら、正直、「もういいです」と答えるかもしれない。でも、裁判を闘ってきた自分の人生に後悔はない。確かに失ったものも多かっただろうけど、得たものも多かった。自分を支えてくれた多くの知人・友人。K寮をすぐ辞めたらできなかった私の宝物だ。積極的に人と話をすることが苦手な私にこれだけ多くの知り合いができたのは、裁判のおかげだ。だから、裁判があって今の自分があると思っている。人前で話をするなんてとんでもない、そんな私が何度、人の前で話をしてきたことか。話は下手だし、しどろもどろで話すことが多かった。でも、私に与えられたことだと人の前に立っていた。おかげで大勢の人の前でもあがることはなくなった。
 職場復帰が決まった年、母が亡くなり、離婚し、私が描いていた人生設計は全く変わったものとなっていた。幼い頃、「大学生になっても母さんと寝るぞ!」(テープにとっておくんだった)と言っていた息子が大学生になり、自分の人生を歩きだしている。
 これからの自分の人生、Sホームで定年まで働いて、それからはどこかでパートで働く、そんな人生を思い描いているが、またまたどんでん返しの人生が待っているかもしれない。それもまた楽しいかなと思える今の自分がいる。
 私が就職するかもしれなかったS施設、私が就職する年に誰も辞めてなくてよかったと、今は感謝している。
(まめ)
結成からやがて1年の但馬ユニオン
 但馬ユニオンの結成は、昨年の3月26日。結成するまでには準備会をつくり、その中で「武庫川ユニオン」の機関紙の読み合わせや意見交換などをしてきたが、毎回出るのは、「自分たちでできるだろうか、困った時、いざという時には応援に来てもらえるのだろうか、そこが不安だ」という声だった。
 しかし、いつまでも(1年以上を経過した)準備会のままでは自然消滅してしまう可能性もあり、しかも、そうした不安は短期間で解消されていくものではなく、結成してがんばっていく過程の中で克服されていくものだと考えるようになった。同じ働く仲間として「こんなことは許されない」という気持ちがあれば何とかなる、背伸びせず、できることから初めていこうという雰囲気になってきた。
 準備会の過程で、但馬魚市場に勤務していたAさんからひょうごユニオンに労働相談があった。経営者が交代し、部長職からアルバイトに降格させられたという不当人事とパワハラという問題だった。数回の交渉を経て賃金面は回復させたが、配転は撤回させることができなかった。その後、Aさんは健康面等の問題で退職をしたが、Aさん曰く、「自分の問題が済んだからといってお世話になったユニオンを退会できない」と語り、毎月の定例会議にも参加してくれている。これが現在の但馬ユニオンの財産になっている。
 また、組合員のBさんの職場では「サービス労働と長時間勤務」、そして「上司によるパワハラ」問題で、いま交渉の準備をしている。始業時間前から仕事を強要されたり、1日の勤務時間が8時40分〜18時30分だったり、また、忙しいことを理由に2カ月余り休日がないという実態である。さらに、上司から退職を強要する発言等が頻繁になってきている。
 こうした状況を受け、いま、ユニオンでは要求書つくりや、豊岡市議や但馬労働基準監督署への対応等、闘う準備を進めているところである。
岡田一雄(但馬ユニオン委員長)