新社会兵庫ナウ

私の主張(2020年9月8日号)

2020/09/15
「権利」を「権理」に。
    本来の意味の表現として

 
「権利」は後ろめたい
 日本国憲法が施行されてから73年が過ぎたが、「権利」意識は日本社会に根付いていない。例えば、有給休暇取得率の国際比較(世界最大旅行会社エクスペディア調査2019年)によると、先進19カ国中4年連続で最下位の50%である。17年の同調査によると、有給休暇を取得することに対し、「罪悪感がある」と考える日本人の割合は63%にも上り、世界で最も高い。韓国もよく似ていて、「罪悪感がある」は61%である。しかし取得率は67%と日本をかなり上回る。 
 もともと日本は「権利」という概念がほとんどない社会であった。江戸末期から明治初期に英語に対応する訳語がたくさん開発されたが、rightには「権利」という訳語が採用された。「権」は「権力」とか「権勢」など「力=power」を意味するものだ。「利」は「利益」「利得」「実利」など「もうける」「得をする」という意味がある。だから、「権利」という文字を改めて見つめなおしてみると、「わがまま」が透けてみえて、何か後ろめたいものを感じてしまうものだ。

「学問のすすめ」では「権理」
 英語のright、ドイツ語のrecht、フランス語のdroitは「道徳的で正しい」、つまり「正義」であり「正義の主張」が本来の意味である。そんな意味の日本語はないのだろうか。『日本国憲法の精神』(渡辺洋三著)によると、なんと福沢諭吉が『学問のすすめ』の中で「権理」という訳語を使っていたのだ。
 では、「理」にはどんな意味があるのか。「理由」「原理」「真理」のように「ととのえる」「ただす」「すじみち」という意味であって、正当なものであることを表す言葉だ。
 ひとりひとりの人間が等しく持っている正当な権限としては「権理」という言葉が適切だと思う。明治の権力者たちはrightを国民が正等に行使することを恐れて、後ろめたさを秘めた「権利」にしたように思われる。彼らは明治憲法を策定して、法治国家を宣言した。その明治憲法では、所有権(財産権)、信教の自由、集会・結社の自由などの「権利」は一応認められていた。例えば「結社の自由」については第29条で「日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス」と「法律の範囲内で」という但し書きつきで認められていた。実際には結社の自由などなく、政権に批判的な社会主義政党は弾圧の対象であった。「権利」を主張できない社会であったから、権利を獲得する闘いは結局実を結ぶことができなかった。

根付かなかった「権利」意識
 日本社会で、「権利」が日の目を見たのは、「日本国憲法」が制定されてからである。「日本国憲法」は世界に誇るべき民主的憲法だ。「権利」はいたるところで光り輝いている。しかしその「権利」は人々が戦い取ったものではなく、与えられたものであった。国民に浸透することは難しかったが、多くの労働者・市民が権利を求めて戦いに立ち上がった。特筆すべきは戦後の民主教育で、子どもたちに権利意識は浸透していった。
 ベビーブーム世代の私たちにとっては、「権利」は堂々と主張するものであった。公務員のストライキ権は法律上与えられていなかったが、先輩世代も含めて、逮捕や処分を乗り越えて「ストライキ権」を勝ち取る闘いに取り組んだ。「権利」を戦い取る実践が社会的な運動として取り組まれた。
 しかし、公務員の「スト権」を勝ち取るために1975年に戦われた「スト権闘争」は、7日間にわたって国鉄の列車を止めるなど壮大な闘いであったが、敗北に終わった。この敗北は、単なる一つの敗北ではなかった。今だから分かるが、時代を区分する大敗北であった。その後、「権利」を追求した総評は解体に追い込まれ、学校教育も「権利」を教えないものにされてしまった。
 まだ、「権利」意識は根付いていなかった。そしてこの45年の間に、日本は「権利」を主張しにくい社会になってしまったのである。
 どこから変えればいいのか方途を見失っていた。だが、「権理」という言葉と出会った今、この言葉にこだわってみたい。例えば、この『新社会兵庫』で「権理(権利)」と記すようにしたらどうだろうか? 「何これ?」と疑問を抱くところから、rightを「正義の主張」「正当なもの」として行使できる社会づくりが始まるのではなかろうか。
 私自身も「権理(権利)」を使い始めたところである。出でよ!賛同者。
佐野修吉